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神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。

11月20日(日) 今日は、詩編141篇と、テモテへの手紙第一の1~3章を読みましょう。 テモテへの二通の手紙とテトスへの手紙は、「牧会書簡」と呼ばれています。 パウロの生きた社会では、男女の差別がありました。女性は公的な場所で発言しないものでした。 ですから、2章8~15節は真理の問題ではなく、文化人類学的な問題として考える必要があります。 現代の社会では12節「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。 ただ、静かにしていなさい。」を、このまま受け入れることはできません。そのように解釈するべきだと思います。 「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。 ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」 (テモテ第一 2:8~15) 「私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。 それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。 神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。 『キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、 諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』」 (テモテ第一 3:14~16)

どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。

11月19日(土) 今日は、詩編140篇と、テサロニケの信徒への手紙第二(テサロニケ人への手紙)3章を読みましょう。 今日でテサロニケは終わりです。 希望を持って忍耐を持つように、キリストが私たちの罪に対して忍耐を持ったように。 「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、 これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」 (テサロニケ第二 3:3~5)

主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

11月18日(金) 今日は、詩編139篇と、テサロニケの信徒への手紙第二(テサロニケ人への手紙)1~2章を読みましょう。 テサロニケの信徒への手紙第二は、第一に続いて、キリストの再臨と裁きについて、 また、不法の者についての警告、救いに選ばれた者の生き方などについて書かれています。 「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、 私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、 主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。 なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」 (テサロニケ第二 2:1~3) 「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。 主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。 ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。」 (テサロニケ第二 2:13~14)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

11月17日(木) 今日は、詩編138篇と、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)5章を読みましょう。 パウロはなおも、「目を覚まして慎み深くいなさい」と主の再臨が間近に迫っている信仰を持っていました。何時こられても良いように心を準備しておくことです。 「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。 ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、 その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。 私たちは、夜や暗やみの者ではありません。 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」 (テサロニケ5:1~11) 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」 (テサロニケ5:16~19)

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

11月16日(水) 今日は、詩編137篇と、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)3~4章を読みましょう。 再臨が、何時如何なる時であろうとも、キリストにあるキリスト者は、キリストと共に究極の希望に生きましょう! 「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。 それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。 このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」 (テサロニケ4:16~17)

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

11月15日(火) 今週この後からは、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)です。 今日は、詩編136篇と、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)1~2章を読みましょう。 パウロは先ず、テサロニケの信徒が偶像から離れ、真実の神に仕えるようになったその信仰を神に感謝します。 「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、 それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」 (テサロニケ2:4) 「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、 あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、 慰めを与え、おごそかに命じました。 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。 あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、 事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。 この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」 (テサロニケ2:11~13) 「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。 あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」 (テサロニケ2:19~20)

愛は結びの帯として完全なものです

11月14日(月) 今日は、詩編135篇と、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)の3~4章を読みましょう。 キリスト者への、新しい生き方を勧めます。それは我々はキリストとともによみがえったのだから、 キリストにあって新しい生き方をしなさいというパウロの基幹となるものです。 「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。 そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」 (コロサイ3:1~4) 「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、 あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。 あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」 (コロサイ3:8~10) 「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、 あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」 (コロサイ3:12~14) 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」 (コロサイ3:23)

御子はそのからだである教会のかしらです。

11月13日(日) 今日は、詩編134篇と、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)の1~2章を読みましょう。 「また、御子はそのからだである教会のかしらです。 御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。 こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。 地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」 (コロサイ1:18~20) 「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。 キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、 あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。 肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」 (コロサイ2:9~11)

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

11月12日(土) 今日は、詩編133篇と、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の3~4章を読みま しょう。 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、 律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、 信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」 (ピリピ3:7~9) 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。 ただ捕えようとして、追求しているのです。 そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。 ただ、この一事に励んでいます。 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、 目標を目ざして一心に走っているのです。」 (ピリピ3:12~14) 「けれども、私たちの国籍は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」 (ピリピ3:20) 「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。 主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、 すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、 そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」 (ピリピ4:5~8) 「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。 また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」 (ピリピ4:12~13)

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

11月11日(金) 今日は、詩編132篇と、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の1~2章を読みま しょう。 フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の手紙は、パウロが獄中生活を送りながらも、ピリピの人々への感謝の気持ちに溢れた、主にある喜びに溢れた手紙です。 [すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。] (ピリピ1:18~21) [キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。] (ピリピ2:6~11)