ブログ – ページ 54 – 聖書検定協会公式サイト

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いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

11月17日(木) 今日は、詩編138篇と、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)5章を読みましょう。 パウロはなおも、「目を覚まして慎み深くいなさい」と主の再臨が間近に迫っている信仰を持っていました。何時こられても良いように心を準備しておくことです。 「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。 ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、 その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。 私たちは、夜や暗やみの者ではありません。 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」 (テサロニケ5:1~11) 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」 (テサロニケ5:16~19)

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

11月16日(水) 今日は、詩編137篇と、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)3~4章を読みましょう。 再臨が、何時如何なる時であろうとも、キリストにあるキリスト者は、キリストと共に究極の希望に生きましょう! 「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。 それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。 このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」 (テサロニケ4:16~17)

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

11月15日(火) 今週この後からは、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)です。 今日は、詩編136篇と、テサロニケの信徒への手紙(テサロニケ人への手紙)1~2章を読みましょう。 パウロは先ず、テサロニケの信徒が偶像から離れ、真実の神に仕えるようになったその信仰を神に感謝します。 「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、 それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」 (テサロニケ2:4) 「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、 あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、 慰めを与え、おごそかに命じました。 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。 あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、 事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。 この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」 (テサロニケ2:11~13) 「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。 あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」 (テサロニケ2:19~20)

愛は結びの帯として完全なものです

11月14日(月) 今日は、詩編135篇と、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)の3~4章を読みましょう。 キリスト者への、新しい生き方を勧めます。それは我々はキリストとともによみがえったのだから、 キリストにあって新しい生き方をしなさいというパウロの基幹となるものです。 「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。 そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」 (コロサイ3:1~4) 「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、 あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。 あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」 (コロサイ3:8~10) 「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、 あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」 (コロサイ3:12~14) 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」 (コロサイ3:23)

御子はそのからだである教会のかしらです。

11月13日(日) 今日は、詩編134篇と、コロサイの信徒への手紙(コロサイ人への手紙)の1~2章を読みましょう。 「また、御子はそのからだである教会のかしらです。 御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。 こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。 地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」 (コロサイ1:18~20) 「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。 キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、 あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。 肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」 (コロサイ2:9~11)

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

11月12日(土) 今日は、詩編133篇と、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の3~4章を読みま しょう。 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、 律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、 信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」 (ピリピ3:7~9) 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。 ただ捕えようとして、追求しているのです。 そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。 ただ、この一事に励んでいます。 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、 目標を目ざして一心に走っているのです。」 (ピリピ3:12~14) 「けれども、私たちの国籍は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」 (ピリピ3:20) 「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。 主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、 すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、 そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」 (ピリピ4:5~8) 「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。 また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」 (ピリピ4:12~13)

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

11月11日(金) 今日は、詩編132篇と、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の1~2章を読みま しょう。 フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の手紙は、パウロが獄中生活を送りながらも、ピリピの人々への感謝の気持ちに溢れた、主にある喜びに溢れた手紙です。 [すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。] (ピリピ1:18~21) [キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。] (ピリピ2:6~11)

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

11月10日(木) 今日は、詩編131篇と、エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)の6章を読みましょう。 今日でエフェソは終わりです。素晴らしかったですよね! 6章では、親と子に対する勧告、奴隷と主人に対する勧告をします。 そして、「神の武具」で身を固めることの必要性を語ります。 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。 それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。 そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」 (エフェソ6:10~18)

私たちはキリストのからだの部分だからです。

11月9日(水) 今日は、詩編130篇と、エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)の4~5章を読みましょう。 キリストの体は一つであること、 古い生き方を捨てて、新しい生き方をするように。 そして光の子として生きるように。 私たちはキリストの体の部分であるから、父母と離れ、その妻と結ばれ、2人は一体となるように。 この奥義は、キリストと教会とを指して言っているということ。 「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、 また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」 (エフェソ4:16) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。 ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 (エフェソ4:29~32) 「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、 ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」 (エフェソ5:1~2) 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。 自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。 かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。 私たちはキリストのからだの部分だからです。 『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

11月8日(火) 今日は、詩編129篇と、エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)の1~3章を読みま しょう。 パウロは、この手紙をローマの獄中で書きました。 それゆえに深い想いと、目に見えない霊的なキリストの体についての教会について語り、祈りにも満ちた手紙になっています。 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」 (エフェソ1:23) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。 それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」 (エフェソ2:8~10) 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。 また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。 こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」 (エフェソ3:18~21)