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これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

1月24日(日) 今日はヨハネによる福音書19~20章を読みましょう。 再び【十字架の窓を通して】 福音書は、神が人となったお方、イエス・キリストの教えられたことと、なされた事とがかいてあります。 特に、その方が、十字架上で死に、復活されたことが書いてあります。 1.「罪のゆるし」 2.「神と人との和解」 3.「私たちの重荷を共に負ってくださる」 4.「永遠の命の約束」 5.「新しく生まれかわるために」 旧約聖書も、新約聖書もこの五つを明らかにするために書かれている、膨大な書物です。 「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」 (ヨハネ20:30~31)

父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。

1月23日(土) 今日はヨハネによる福音書17~18章を読みましょう。 【イエスの祈り】 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。『父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』」 (ヨハネ17:1~3) 「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」 (ヨハネ17:24~26) 【裏切られ、逮捕される】 「そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか。』と彼らに言われた。彼らは、『ナザレ人イエスを。』と答えた。イエスは彼らに『それはわたしです。』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。」 (ヨハネ18:1~5)

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

1月22日(金) そうです、私たちは、今まさに患難の中を通っています。しかし、勇敢であるようにします。なぜなら、私たちの主はすでに世に勝ったお方でありますから。 今日はヨハネによる福音書15~16章を読みましょう。 【神と人間の和解】 神は全知全能で、聖く、正しいお方ですから、私たちはおそれ多くて、神の前に出ることすらできません。しかし、罪が許されて、清められましたので、安心して神の前に出ることができます。神と仲良く交際しても良くなりました。このような神と人間の関係を作り上げるために、イエス・キリストは十字架の上で、人間の罪の犠牲となってくださいました。 神と私たちは良い関係になりました。神があなたの親友です。あなたは気軽に神に話しかけても良いのです。このような神と人との和解の関係は一時的なものではなく、あなたの望む限り、永遠に続きます。何故ならば、あなたの罪は完全に、永遠に許されるからです。そのために支払われた代償があまりにも高価で尊いからです。それは、神が人とtなったお方、すなわち、キリストの命を犠牲にしているからです。 「『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』」 (ヨハネ16:33)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」

1月21日(木) 今日はヨハネによる福音書13~14章を読みましょう。 いよいよ、受難と復活の章に入ります。 【弟子の足を洗う】 「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」 (ヨハネ13:14~15) 【裏切り者の予告】 「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。』」 (ヨハネ13:21) 【ペテロの離反の予告】 「イエスは答えられた。『わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」 (ヨハネ13:38) 【イエスは父に至る道】 「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」 (ヨハネ14:6) 【聖霊を与える約束】 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」 (ヨハネ14:17~18)  

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

1月20日(水) 今日はヨハネによる福音書11~12章を読みましょう。 「私は死んだらどうなるのでしょうか。」これは。誰もが持つ心の中の問いです。そして、誰もこれに答えることはできません。証明できないからです。もし、これに答える方法があるとするならば、事実として死に、事実として死後の状態を見せることです。キリストは、人が死んだのち、新しい体をもってよみがえることを見せました。そして、神の国(天国)において永遠に生きます。このような単純な心理を、わかりやすい事実を通して示すために、人々の見ている前で、十字架の上で死に、大勢の人々の前に復活されました。 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」 (ヨハネ11:25)

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

1月19日(火) 今日はヨハネによる福音書9~10章を読みましょう。 【生まれつきの盲人をいやす(シロアムの池)】 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」 (ヨハネ9:1~7) 【羊の囲いのたとえ】 「『まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。』イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』」 (ヨハネ10:1~11)

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

1月18日(月) 出社を制限されている方もおられるでしょう。 みなさん不自由な日々ですよね。 全ての方に世の光が差し込みますように! さて、今日はヨハネによる福音書7~8章を読みましょう。 「この人はメシアか」 「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。『あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。』」 (ヨハネ7:28~29) 「生きた水の流れ」 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」 (ヨハネ7:37~39) 「イエスは世の光」 「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」 (ヨハネ8:12) 「真理はあなたたちを自由にする」 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」 (ヨハネ8:31~32)

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

1月17日(日) コロナの第3波の波が激しく押し寄せてきて、本当に息が詰まりそうな日々ですが、 私たちはイエス様に大胆に申し上げましょう! 「よくなりたいです。」 さて、今日はヨハネによる福音書5~6章を読みましょう。 5章「ベトザタ(ベテスダ)の池で病人をいやす」 【よくなりたいか。】 「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」 (ヨハネ5:1~8) 5章「御子の権威」 【また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。】 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。』」 (ヨハネ5:19~27) 5章「イエスについてのあかし」 【その聖書が、わたしについて証言しているのです。】 「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。」 (ヨハネ5:31~32) 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」 (ヨハネ5:39~40)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

1月16日(木) 今日はヨハネによる福音書3~4章を読みましょう。 3章は「イエスとニコデモ」の話です。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」 (ヨハネ3:16~21) 4章は「イエスとサマリアの女」の話です。 「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」 (ヨハネ4:5~14)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1月15日(金) 一月ももう半ばになりました。 今日から、ヨハネによる福音書を読みましょう。 マタイによる福音書とは、少しおもむきが異なります。しかし、イエス・キリストの【教え】と【なされたこと】が書いてあるという点においては同じです。 そして、十字架と復活に焦点が合わされていることも同じです。 新約聖書はもっぱらイエス・キリストのことが書いてあります。旧約聖書はイエス・キリストに向かって書かれています。そのイエス・キリストの教えとなされたことは、十字架に焦点が合わされていました。すなわち、聖書の核心は、イエス・キリストの十字架(死と復活)です。 十字架という窓を通して、聖書全体を読みましょう。 今日はヨハネによる福音書1~2章を読みましょう。 【神が人となった】ヨハネ1:1,14 ここで、「ことば」というのは、キリストのことを指しています。唯一の全能の神が貧しい人間となって姿を現し、惨めな十字架上の死を遂げられた、というのが福音書の語ろうとしているところです。 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」 (ヨハネ1:1~5) 「ヨハネは答えて言った。『私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。』この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。』またヨハネは証言して言った。『御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。』」 (ヨハネ1:26~34)