ブログ – ページ 229 – 聖書検定協会公式サイト

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その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。

8月18日(土) 爽やかな風と、抜けるような青空を、久しぶりに見た気がします。 今日は詩編49篇と、エゼキエル書21~24章を読みましょう。 不信仰、不正、偶像礼拝が、あまりに酷すぎるために、南王国ユダとその首都エルサレムは滅びるのです。このエルサレム滅亡の預言は24章まで続きます。 エゼキエルは結婚していました、妻が死にました。民族全体も、彼個人も、悲劇の真っただ中にありました。だからこそ不思議な幻を見たのかもしれませんね。 「主なる神はこう言われる」 この表現が、エゼキエル書にはなんと270個も出てきます。神は、一人しかおられない。それは「主なる神」です。他の旧約聖書の教えと同じように、この「主なる神」への信仰が、エゼキエルの信仰です。神はただ一人の全能者ですから、さばくも救うも思いのままです。さばきをなさる神をおそれよ。これがエゼキエル書の前半のメッセージです。 [人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日、その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」] (エゼキエル書 24:25~27)

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。

8月17日(金) 向こう 聖書検定で難解な聖書を優しく理解し世界を知ろう! 1週間くらいは少し涼しくなるそうですが、秋が来たと喜んではいられないそうです。 また、暑さがぶり返してくるそうです。 しかも、息つくこと無く、台風19号が西日本に接近しています。気をつけてくださいね。 どうなっているのでしょう、今年の夏は。 さて、今日は詩編48篇と、エゼキエル書17~20章を読みましょう。 いったい、先祖が悪かったためにイスラエル人(ユダヤ人)は、こんなに苦しむのでしょうか? 人間は過去の奴隷ではありません。いまの不幸をぶつぶつ言わずに、まず、自分自身を悔い改め、努力しなさい、と預言しています。エゼキエルは「個人」を大切にした預言者です。 [次のような主のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。] (エゼキエル書 18:1~2)

人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。

8月16日(木) 山口・周防大島町で、行方不明になっていたヨシキくん(2歳になったばかり)が、15日朝に3日ぶりに無事発見されて本当に良かったですね。 お母さんの必死の呼びかけには胸詰まるものがありました。 また、颯爽と月光仮面(古い?)のように現れた、大分県に住むボランティアの尾畠春夫さん(78)がヨシキくんを発見しましたが、本当にこのような方がいてくれてよかったですね。 私たちも迷った時に、神様が、「〇〇さん、出ておいで!」って常に呼びかけていてくださることを感じて、感謝です。 さて、今日は詩編47篇と、エゼキエル書13~16章を読みましょう。 エゼキエルはよくたとえ話で語りました。 幻にしろ、変わったパフォーマンスにしろ、例え話にしろ、実に変わった人です。 「森の中のぶどうの木」も変なたとえです。ぶどうは甲府盆地のような日当たりの良い平地の畑で栽培します。森の中のぶどうの木なんて、意味のないことです。しかもその森が山火事にあいます。エルサレムはそれほど荒れ廃れると預言しました。そして、その通りになってゆきます。 [人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。] (エゼキエル書 15:2)

人の子よ。震えながらあなたのパンを食べ、おののきながら、こわごわあなたの水を飲め。

8月15日(水) 8月ももう半ばになりました。 子供の頃なら、夏が終わるせつなさと、宿題ができていない焦りで、泣きたくなる頃ですね。 今日は詩編46篇と、エゼキエル書10~12章を読みましょう。 エゼキエルは不思議な幻を見て語っただけではなく、変わった振る舞いをしながら語りました。ブルブル震えながらパンを食べ、祖国に残っている人々が、やがて同じようになるといいました。 [ついで、私に次のような主のことばがあった。「人の子よ。震えながらあなたのパンを食べ、おののきながら、こわごわあなたの水を飲め。この地の人々に言え。『神である主は、イスラエルの地のエルサレムの住民について、こう仰せられる。彼らは自分たちのパンをこわごわ食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる。その地が、そこに住むすべての者の暴虐のために、やせ衰えるからである。人の住んでいた町々が廃墟となり、その地が荒れ果てるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』」] (エゼキエル書 12:17~20)

終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。

8月14日(火) 昨日は、ちょうど新宿付近を歩いているときに、激しい雷が飛び上がる程に轟き、滝のような雨に打たれ続けて歩くこと10分、最後には笑ってしまいました。 みなさまも急なゲリラ雷雨にはお気をつけください。 さて、今日は詩編45篇と、エゼキエル書7~9章を読みましょう。 外国の地で捕囚となっている人は、懐かしい祖国を思います。国に残った人々はどうしているでしょうか。 残念ながら絶望です。悔い改めるには遅すぎました。不正と偶像礼拝とが満ちています。アダムに始まった罪は、来るところまで来てしまいました。預言通り、やがて紀元前586年、エルサレムは完全に陥落し、神殿は跡形もなく壊されました。 [神である主はこう仰せられる。「わざわいが、ただわざわいが来る。終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。] (エゼキエル書 7:5~6)

一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。

8月13日(月) 聖書通読を故郷でされている方もおられるでしょう。良いですね! 今日は詩編44篇と、エゼキエル書4~6章を読みましょう。 南王国ユダ(首都エルサレム)は、紀元前586年に完全に滅ぼされ、多くの人が捕囚となりました。 しかし、実はそれより11年前、紀元前598年に侵略されて捕囚となってバビロンに連れて行かれた人々がいました。 そのうちの一人がエゼキエルでした。彼はそのような可哀想な状況の下で召命を受けました。この異常な状況下で、彼は預言を続けたことを覚えて、読み進んでください。 最初に出てきたのは神の有様だったのですが(1:1~6)、私たちは彼の言っていることがよくわからず、想像もできないと思います。できないのが、エゼキエル書の良いところだと思ってください。 幼子のように「ねえ、エゼキエルおじさん。今度はどんな幻を見たの?話してちょうだい。」というような気持ちになって読み進んでください。 [人の子よ。一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。それから、それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置せよ。また、一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て、あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ。] (エゼキエル書 4:1~3)

私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。

8月12日(日) 今日から聖書通読も、第33週に入ります。 もう少しで大山を超えます。 今日からエゼキエル書を読みましょう。 今日は詩編43篇と、エゼキエル書1~3章を読みましょう。 落ち込んでいる時に、「それはお前が悪いからだ」と言われたら、さらに落ち込みますよね。エゼキエル書はそんな内容です。「バビロン捕囚になったのは、お前たちが悪いからだ」というような内容です。しかも、少し気味の悪い幻や不思議な例え話が出てきます。 どうか落ち込まないで読み始めてください。終わりの方に向かって、だんだん明るくなり、最後に不思議な魅力にひかれると思います。 [第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。] (エゼキエル書 1:1)

主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。

8月11日(土) 昨日は、気分を変えて、スタバで聖書通読をしました。 大勢の話し声の中でも、かえって集中ができて、平安がありました。 皆さんも、時に、環境を変えてみるのはいかがですか? 今日は詩編42篇と、哀歌4~5章を読みましょう。 4章は、かつてのエルサレムの美しさと、対照的に荒涼となったエルサレムを対比して歌っています。 5章は、民の惨めな状態を切に神に訴え、民が1日も早く罪を悔い改め、神に立ち返ることができるようにと祈ります。これこそが哀歌の本質であります。 [しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。] (哀歌5:19~22)

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

8月10日(金) 今日と明日は、哀歌を読みます。 今日は詩編41篇と、哀歌1~3章を読みましょう。 南王国ユダは、新バビロニア帝国のネブカドネザル王(ネブカドレツァル)によって攻撃され、紀元前586年に、エルサレムは破壊され、神殿も破壊されました。そして、多くのイスラエルの指導的な人々は、捕囚として連れて行かれました。荒涼と化したエルサレムに佇み、涙を流し、嘆き悲しむ歌をよみました。それが哀歌です。 全編、これ嘆きの歌です。しかも、日本語には翻訳しようもありませんが、各章とも(5章は除き)、ヘブライ語のアルファベット順の「いろは歌」になっているという、凝った内容になっています。 [私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。] (哀歌3:22~24)

主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。

8月9日(木) 台風13号が過ぎていくのをひたすら凌いでいます。どうか全てが無事でありますように! 今日で、エレミヤ書は終わりです。お疲れ様でした。 今日は詩編40篇と、エレミヤ書50~52章を読みましょう。 エレミヤは「嘆きの預言者」とか「泣く預言者」などと言われます。確かに彼は、人々に快く受け入れられなかった悲劇的な預言者でした。しかし、初めからそのようなレッテルを貼って読むと、全体的な理解を妨げることになるかもしれません。彼は、神が全能者であられ、世界の創造者、歴史を導かれる唯一の神であられることを預言しました。そして、彼の預言の正しさは、その後の歴史を通して証明されました。 私たちがエレミヤの預言を通して教えられることは、生涯を通して、唯一の神を信じる熱心な信仰ではないでしょうか。特に不幸な苦しい時にも神を信じて生きてゆく信仰ではないでしょうか。 [主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。] (エレミヤ52:13)