ブログ – ページ 214 – 聖書検定協会公式サイト

ブログ

だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

1月12日(土) 今日は、マタイの福音書23~24章を読みましょう。 【イエス・キリストに反対した人々】 ローマ大帝国の中のユダヤ地方は、他の地域に比べると変わった地方でした。外面的にはローマから派遣されてきた総督やローマ帝国に認められた領主によって納めれれていましたが、一歩人々の生活の中に入ると、完全な宗教社会でした。それは、旧約聖書を読み終わる頃に、このことがもっとよくわかってきます。 [そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。] (マタイ23:1~12)

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

1月11日(金) もう金曜日! そしてまた、連休! リズムが戻るのが難しいですね。でも、聖書通読は毎日リズムよくいたしましょう! 今日は、マタイの福音書21~22章を読みましょう。 【エルサレムで迎える最後の日々】 エルサレム入城から、イエス・キリストの十字架の死までは、1週間足らずです。 これらの短い日々、イエスは神殿を祈りの家とするように訴え、ユダヤ教指導者たちと論争を重ね、ますます彼らとの対立は決定的に避けられないものとなって行きました。 イエスは逮捕され、十字架を背負って、ドロローサの道をゴルゴダに向かって歩みます。 しかし、これは私たちへの福音の道でした。 [それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」] (マタイ21:1~3) [そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」] (マタイ22:35~40)

このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。

1月10日(木) ここ、東京の中央区あたりでは、スーツ姿の人々が団体で、年始のご挨拶回りをしている姿が見られます。日本らしい良い習慣ですね。 今日は、マタイの福音書19~20章を読みましょう。 イエス・キリストはエルサレムへの途上でさらに教えをします。 【離縁について教えます。】 [『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」] (マタイ19:5~6) 【子供を祝福します。】 [しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。] (マタイ19:14~15) 【金持ちの青年】 「イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 (マタイ19:21) 【ぶどう園の功労者のたとえ】 [このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。] (マタイ20:16)

見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

1月9日(水) 今日は関東でも雪がチラホラする地方もあるみたいですね。 今日は、マタイの福音書17~18章を読みましょう。 イエスの姿が弟子たち三人の見ている前で神々しく光り輝き、モーセとエリヤが現れるという、神々しい出来事が起こりました。 イエスが彼らと語り合ったのは、旧約聖書を継承した救いであることを示し、また、エリヤが死ぬことなく昇天した人物であること、イエスもその昇天者であることを語っています。 [それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。] (マタイ17:1~5)

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

1月8日(火) 木枯らしぴゅーぴゅー! 寒いですね。あったかい栄養のあるものをお腹に入れて、乗り切りましょう! もちろん神様の栄養(聖書のみことば)を絶えず携えましょう! 今日は、マタイの福音書15~16章を読みましょう。 イエス・キリストの教えや、行ったことはよくわかりますが、ただ、最後までわかりにくい一つのことがありました。 それは、イエス・キリストが自分の死について予告し(マタイ16章と20章)、そのことにこだわりました。なぜでしょうか。そこにイエス・キリストの目的がありました。 読んでいてわからない箇所もあると思いますが、将来わかることを楽しみに、どんどん読み進んでください。 [そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。] (マタイ16:20~24)

天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。

1月7日(月) 今日から3学期が始まる学生さんや、仕事始めの方もおられますね。 新年の始まりが、喜びに満ちたものとなりますようにお祈りいたします。 今日は、マタイの福音書13~14章を読みましょう。 【イエス・キリストはたとえで話される】 [イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」] (マタイ13:35~36) 《種を蒔く人のたとえ》(マタイ13:1~9) 《毒麦のたとえ》(マタイ13:24~30) 《からし種とパン種のたとえ》(マタイ13:31~33) 《天の国のたとえ》(マタイ13:44~50) 【イエス・キリストのいやし・奇跡】 《五千人の給食》(マタイ14:13~21) 《湖の上を歩く》(マタイ14:22~33) 《ゲネサレ(ゲネサレト)で病人をいやす》(マタイ14:34~36)

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

1月6日(日) お正月気分もあっという間でしたね。 今日は、マタイの福音書11~12章を読みましょう。 【イエス・キリストの生涯の目的】 福音書を読んでも、イエス・キリストの生涯の詳しいことはわかりません。しかし、彼の教えや行ったことはよくわかります。そのことを記録したのが福音書であるということです。イエス・キリストは、その教えや行ったことを通じて、神がどのようなお方であるかを示されました。これが、イエス・キリストの目的でした。「イエス・キリスト知った者は、神を知った者である」と言えます。 [すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」] (マタイ11:28~30) [イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」] (マタイ12:11~12) [しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」] (マタイ12:48~50)

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

1月5日(土) 新元号の公表日が4月1日に決まったそうです。 恵豊かな、喜びと感謝に満ちた名前になってほしいですね。 今日は、マタイの福音書9~10章を読みましょう。 【病人を癒しました。】マタイ9:1~9 マタイによる福音書の約1割余は、イエス・キリストが病人を癒した記事です。また、不思議な奇跡も行われました。これらはイエスが神の性質を持ったお方であるということを証明しています。 [イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。] (マタイ9:1~9) [イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。] (マタイ9:12) [だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」] (マタイ9:16~17) [すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。] (マタイ9:20~22)

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

1月4日(金) 今日から仕事始めの方もおられますね。 どうか今年一年が平安でありますように。 神様の愛の中で歩めますようにお祈りいたします。 今日は、マタイの福音書7~8章を読みましょう。 [さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。] (マタイ7:1~3) [求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。] (マタイ7:7) [何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。] (マタイ7:12) [狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。] (マタイ7:13) [わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。] (マタイ7:24) [イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」] (マタイ78:20) [イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。] (マタイ78:23~26)

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

1月3日 木曜日 お正月三が日、ゆっくりできましたか? 箱根駅伝も、波乱の往路! 今日はゴール地点に応援に行きます! 今日は、マタイの福音書5~6章を読みましょう。 【イエス・キリストは説教、教育をしました。】マタイ5:43~48 イエス・キリストは色々な機会に、人々を教えました。それは、一人の人間としてではなく、あたかも神が教えているように、権威を持って、はっきりと教えられました。他の箇所では、たとえ話を多く用いて教えています。 [『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。]