ブログ – ページ 61 – 聖書検定協会公式サイト

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その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。

8月25日(木) 今日は詩編56篇と、エゼキエル書46~48章を読みましょう。 エゼキエル書は今日で最後です。お疲れさまでした。 神殿から流れ出る水は死海まで達します。 生命の源である神殿から流れ出る水は、生命の象徴です。 (エデンから流れる川とリンクしているようです) 川のほとりは植物がよく成長し、 人が生活するのに最も恵み豊かな土地です。 『彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。 神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。 見ると、水は右側から流れ出ていた。… 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。 海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、 そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。 この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』 (エゼキエル書 47:1~2,6~9) 最後に句は、エゼキエルにとって、主の臨在こそが希望の源であり、これこそが、この書全体の真ん中に流れている思いです。 『町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、「主はここにおられる。」と呼ばれる。』 (エゼキエル書 48:35)

主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。

8月24日(水) 今日は詩編55篇と、エゼキエル書43~45章を読みましょう。 かつてエルサレム神殿をさったイスラエルの神の栄光は、 しばらく捕囚の地に移りましたが、神殿が再建されたならば、本殿の場所に戻ります。 『彼は私を東向きの門に連れて行った。すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。 その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。 私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、 またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。 それで、私はひれ伏した。主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。 なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。 ある人が私のそばに立っているとき、私は、神殿からだれかが私に語りかけておられるのを聞いた。 その方は私に言われた。 「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、 わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。 イスラエルの家は、その民もその王たちも、 もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。』 (エゼキエル書 43:1~7)

神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。

8月23日(火) 今日は詩編54篇と、エゼキエル書40~42章を読みましょう。 【新しい神殿の幻】 エゼキエルは幻のうちにエルサレムに連れて行かれ、神殿の内と外をくまなく見せてもらいます。 これが、エルサレムに帰還して、再び神殿を建てよ!という預言かもしれません。 大変長く、47章まで続きます。 『私たちが捕囚となって二十五年目の年の初め、その月の十日、 町が占領されてから十四年目のちょうどその日、 主の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。 すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、 非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。 主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。 その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。 その人は私に話しかけた。 「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。 わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。 あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」』 (エゼキエル書 40:1~4)

これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。

8月22日(月) 今日は詩編53篇と、エゼキエル書37~39章を読みましょう。 【枯れた骨の復活】 Ezekiel dry bones song (エゼキエルの枯れた骨の歌) 「エゼキエルの枯れた骨の歌」になるほど有名なこの預言を読むと、 ペンテコステの日、キリストの弟子たちが聖霊を受けて別人のように変わり、 新しくされた有様を連想しませんか。 事実、今でもペンテコステの日に、この歌を歌う教会もあります。 もちろんエゼキエルは、550年余りものちに起こるペンテコステの出来事を知るはずもありませんが、 この幻をエゼキエルにお見せになられた神は、遠い先のイエス·キリストを念頭に置いて示されたのだと思います。 【臨在の神への信仰】 エゼキエルは、神がイスラエルの民の只中に臨在しておられるという預言をします。 神の臨在はエゼキエルだけではなく、全聖書の教えているところですが、彼には特に強いように思われます。 【マゴクのゴク】 マゴクという地方のゴクという王が滅ぼされるという預言。これが何を指しているのか不明です。 イスラエルに対して、襲いかかる最後の敵を指しているようです。 あるいは、バビロンの滅亡を指しているのかもしれません。 『主は私に仰せられた。 「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。 見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、 おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」』 (エゼキエル書 37:4~6)

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

8月21日(日) 今日は詩編52篇と、エゼキエル書33~36章を読みましょう。 「立ち帰れ、立ち帰れ」 イスラエル人の国は、南北共に滅んでしまいました。 神の救いの計画は、消えて無くなったのでしょうか。 アブラハムに対して立てられたあの祝福の約束も イスラエル人のあまりの不信仰の故にほごになったのでしょうか。 いいえ、焼け野原からでも、春に新芽が出てくるように、神は新しい歴史を始めようとされます。 「新しい心、新しい霊」 祖国に帰ることができ、さらに新しい心、新しい霊が与えられるという預言。 イスラエル人(南王国ユダの人々)を捕囚としていたバビロニア帝国は、 ペルシャ帝国にとって代わられました。 ペルシャ帝国王クロス(キュロス)は、紀元前538年にイスラエルの民を解放しました。 エゼキエルの預言通りになりました。 しかし、外面だけ取り戻しても、内面が新しくされなければ、 また、なんのこともありません。 それで、神は「新しい心と新しい霊」とを、一人一人くださると預言します。 これはのちにペンテコステの時(使徒2:1~42)に成就したと考えられないでしょうか。 「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、 あなたがたはすべての汚れからきよめられる。 わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、 あなたがたのうちに新しい霊を授ける。 わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」 (エゼキエル書 36:25~28)

人の子よ、エジプトの王ファラオに向かって嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。

8月20日(土) 空の高いところに鱗雲が出てきましたね。 今日は詩編51篇と、エゼキエル書29~32章を読みましょう。 諸国民の預言の中でエジプトへの預言が一番長く、それは重要であったからと思われます。 また、エジプトに対する裁きとして、『主の言葉が私に臨んだ』という導入句で始まる三つの預言があります。 さらに『主なる神はこう言われる』で導入される三つの預言があります。 [第十二年の十二月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、エジプトの王ファラオに向かって嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。国々の中で若獅子である者よお前は滅びに定められた。お前は水中のわにのようだ。川の中であばれ回り足で水をかき混ぜ、流れを濁らせた。] (エゼキエル書 32:1~2)

ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった。

8月19日(金) 今日から、エゼキエル書の後半に入ります。 今日は詩編50篇と、エゼキエル書25~28章を読みましょう。 イスラエル民族(アブラハムの子孫)を、私たち人類の代表と思って、旧約聖書を読むことが大切です。この民族は二つの大きな歴史的な出来事を経験します。一つは「出エジプト」でした。あとの一つは自分たちの国の滅亡でした。特に、その時バビロン捕囚として連れて行かれました。しかし、不思議なことに、約50年の捕囚の後、バビロンも滅び、捕囚の人々は解放されて、昔住んでいた土地に帰ることができました。紀元前538年です。これら一連の出来事を「バビロン捕囚」とか「第二のエジプト」などと呼んでいます。 それで預言者なども、捕囚前の預言者とか、捕囚後の預言者、などと言って区別しています。エゼキエルは、まさに捕囚中の預言者でした。ですから、暗くて厳しい預言内容になっています。しかし、今日から読む後半は、少しずつ希望も出てきます。もちろん、たとえ話や幻などを通しての独特の表現は終わりまで続きます。 エゼキエルは、南王国ユダを取り巻く諸国民についての預言をします。 南王国ユダの滅亡に手を貸したり、あざ笑った近隣の諸国民に、神の裁きが下ると預言します。アンモン人、モアブ人、エドム人、ペリシテ人、フェニキア人、エジプト人などに対してです。25章から32章まで続きますので、少し長く感じるかもしれません。 [「人の子よ。顔をアモン人に向け、彼らに預言せよ。あなたはアモン人に言え。神である主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしの聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった。それゆえ、わたしは、あなたを東の人々に渡して、彼らの所有とする。彼らはあなたのうちに宿営を張り、あなたのうちに住まいを作り、あなたの産物を食べ、あなたの乳を飲むようになる。わたしがラバを、らくだの牧場とし、アモン人の地を羊のおりとするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。] (エゼキエル書 25:2~5)

その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。

8月18日(木) 熱中症にも気をつけてくださいね。 今日は詩編49篇と、エゼキエル書21~24章を読みましょう。 不信仰、不正、偶像礼拝が、あまりに酷すぎるために、南王国ユダとその首都エルサレムは滅びるのです。このエルサレム滅亡の預言は24章まで続きます。 エゼキエルは結婚していました、妻が死にました。民族全体も、彼個人も、悲劇の真っただ中にありました。だからこそ不思議な幻を見たのかもしれませんね。 「主なる神はこう言われる」 この表現が、エゼキエル書にはなんと270個も出てきます。神は、一人しかおられない。それは「主なる神」です。他の旧約聖書の教えと同じように、この「主なる神」への信仰が、エゼキエルの信仰です。神はただ一人の全能者ですから、さばくも救うも思いのままです。さばきをなさる神をおそれよ。これがエゼキエル書の前半のメッセージです。 [人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日、その日、のがれた者が、この知らせを告げにあなたのもとにやって来る。その日、あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」] (エゼキエル書 24:25~27)

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。

8月17日(水) 今日は詩編48篇と、エゼキエル書17~20章を読みましょう。 いったい、先祖が悪かったためにイスラエル人(ユダヤ人)は、こんなに苦しむのでしょうか? 人間は過去の奴隷ではありません。いまの不幸をぶつぶつ言わずに、まず、自分自身を悔い改め、努力しなさい、 と預言しています。エゼキエルは「個人」を大切にした預言者です。 『次のような主のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、 『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。』 (エゼキエル書 18:1~2)

人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。

8月16日(火) 今日は詩編47篇と、エゼキエル書13~16章を読みましょう。 エゼキエルはよくたとえ話で語りました。 幻にしろ、変わったパフォーマンスにしろ、 例え話にしろ、実に変わった人です。 「森の中のぶどうの木」も変なたとえです。 ぶどうは甲府盆地のような日当たりの良い平地の畑で栽培します。 森の中のぶどうの木なんて、意味のないことです。 しかもその森が山火事にあいます。 エルサレムはそれほど荒れ廃れると預言しました。 そして、その通りになってゆきます。 「人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、 その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。」 (エゼキエル書 15:2)