ブログ – ページ 29 – 聖書検定協会公式サイト

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信仰による祈りは、病む人を回復させます。

12月6日(水) 今日はヤコブの手紙の4~5章を読みましょう。今日で終わりです。 【悪魔に反抗すること】4:7 ヤコブは信仰生活の実践面で、はっきりと自覚的な努力を強調しています。 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」 【忍耐すること】5:7~8 「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。 見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」 「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。 喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。 その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。 また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」 (ヤコブ5:13~15)

信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

12月5日(火) 今日はヤコブの手紙の2~3章を読みましょう。 さて、ヤコブの 【行いの伴わない信仰】2:14,24 私たちが義とされるのは、信仰によってであって、行によるものではありません。 したがって、ヤコブ2:24は矛盾しているように思えるかもしれません。 しかし、信仰を持ったからには、美しい御霊の実が成るのではないでしょうか。 【口から発する言葉に気をつけましょう】3:10,11 口数の多い人であれ、少ない人であれ、私たちは口から発する言葉でなんと多くの人を傷つけていることでしょうか。 「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。 そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、 もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」 (ヤコブ2:14~17)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

12月4日(月) 今日からヤコブの手紙の1章を読みましょう。 ヤコブの手紙からユダの手紙までの終わりの七つの手紙は、 多くの教会を対象にして、教え、励ましている手紙です。 ちょうど私たちに直接送られてきた文書のようなものです。 信仰の実践生活について、いろいろな教えやいましめが書いてありますから、 大変読みやすく信仰生活の面で大変参考になります。 【実践的な信仰】ヤコブ1:22 口先だけで実践に乏しい人がいました。ヤコブはそのような信仰に常々疑問を抱いていたように思われます。 「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」 (ヤコブ1:22) 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」 (ヤコブ1:2~4) 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」 (ヤコブ1:12)

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

12月3日(日) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の13章を読みましょう。 今日でヘブライ(ヘブル)人への手紙はおしまいです。 少し独創的な内容なので、一度読むだけでは簡単に理解できないかもしれません。 異邦人にはもともとわかりにくい手紙なのです。 「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。 主ご自身がこう言われるのです。 『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。 『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。 彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」 (ヘブ13:5~8)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

12月2日(土) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の12章を読みましょう。 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。」 (ヘブ12:2) 「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。 『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、 決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、 揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。 こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。 私たちの神は焼き尽くす火です。」 (ヘブ10:26~29)

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

12月1日(金) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の11章を読みましょう。 [信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。] (ヘブ11:1) 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。 信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。

わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。

11月30日(木) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の10章を読みましょう。 ヘブライ(ヘブル)人への手紙10:19から終わりまでは、今までの議論に立ち、しっかり信仰を持ち続けていこうとすすめています。 このお終わりのおすすめの部分には珠玉の聖句が、この後の章にもいくつもあります。順次ご紹介いたしましょう。 「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」 (ヘブ10:14) 「『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、 からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」 (ヘブ10:17~22)

キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

11月29日(水) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の9章を読みましょう。 地上の聖所と、天の聖所(まことの聖所)について書かれています。 そして、罪を贖う唯一のいけにえについて。 「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、 言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、 ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」 (ヘブ9:11~12) 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。 そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、 キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。 しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、 二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」 (ヘブ9:24~28)

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。

11月28日(火) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の7~8章を読みましょう。 【イエス・キリストによる新契約は旧契約に優っている】ヘブ8:7~13 エレミヤ31:31~34を長々と引用し、モーセに与えられた律法を古いもの、一次的なものとし、 やがて新しい永遠の契約が与えられると予言しています。 これはイエス・キリストにおいて成立したことを言おうとしています。 9章では、このことをさらに詳しく説明し、 一度だけ流されたキリストの血が新しい永遠の契約を打ち立てたいと言っています。 「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。 「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。 小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」 (ヘブ8:7~13)

イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。

11月27日(月) 今日は詩編150篇と、ヘブライ(ヘブル)人への手紙の5~6章を読みましょう。 今日で詩編が終わりましたね。ハレルヤ!ハレルヤ! 【メルキぜデクのような大祭司イエス・キリスト】ヘブ6:20 御子イエス・キリストは、特別な大祭司で、モーセの兄アロンより始まる人間大祭司にまさる大祭司です。 そのことをメルキゼデクのような大祭司という独創的と思えるような大胆な説明をします。 メルキゼデクという人は、創世記14:17~24にほんの少しだけ出てくる人物で、読み落としてしまいそうな人です。 詳しいことがわからないほどに少ししか出てこない人ですのに、アブラハムが十分の一の捧げ物をしていることから、 その不思議に着目して、イエス・キリストが思っている以上に偉大な大祭司であることを主張します。 7章がその説明となっています。 「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」 (ヘブ6:19~20)