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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

1月16日(木) 今日はヨハネによる福音書3~4章を読みましょう。 3章は「イエスとニコデモ」の話です。 [神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。] (ヨハネ3:16~21) 4章は「イエスとサマリアの女」の話です。 [それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」] (ヨハネ4:5~14)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1月15日(水) 一月ももう半ばになりました。 今日から、ヨハネによる福音書を読みましょう。 マタイによる福音書とは、少しおもむきが異なります。しかし、イエス・キリストの【教え】と【なされたこと】が書いてあるという点においては同じです。 そして、十字架と復活に焦点が合わされていることも同じです。 新約聖書はもっぱらイエス・キリストのことが書いてあります。旧約聖書はイエス・キリストに向かって書かれています。そのイエス・キリストの教えとなされたことは、十字架に焦点が合わされていました。すなわち、聖書の核心は、イエス・キリストの十字架(死と復活)です。 十字架という窓を通して、聖書全体を読みましょう。 今日はヨハネによる福音書1~2章を読みましょう。 【神が人となった】ヨハネ1:1,14 ここで、「ことば」というのは、キリストのことを指しています。唯一の全能の神が貧しい人間となって姿を現し、惨めな十字架上の死を遂げられた、というのが福音書の語ろうとしているところです。 [初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。] (ヨハネ1:1~5) [ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」] (ヨハネ1:26~34)

恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。

1月14日(火) 今日は、マタイの福音書27~28章を読みましょう。 今日でマタイはおしまいです。 【合法的に死刑にするために。】マタ:27:1,2,24 ローマ帝国の属領に過ぎないユダヤ地方で、ユダヤ人が勝手に死刑を執行することはできません。ユダヤ人の宗教指導者たちは、ローマから派遣されていた当時の総督に死刑の許可をもらいに行きました。総督はイエスを助けようと試みましたが、結局、ユダヤ人の宗教指導者の圧力に敗けて、死刑を許可しました。 イエス・キリストは、神としての力を用いて彼らを殺すことも、あるいは、彼らから逃れることもできたはずです。しかし、今回は静かに殺されてゆきました。 【イエス・キリストが受けた侮辱】マタ:27:27~31 【イエス・キリストの死】マタ:27:45~50 イエスが殺された日は「過越の祭」という、ユダヤ人にとっては一番大きな宗教祭日の期間でした。かつて、子羊を犠牲として殺し、その血をユダヤ人の家の入り口に塗り、そのことによってエジプトで奴隷であった状態から救われたことを記念していました。その日に、イエス・キリストはあたかも、その子羊のように十字架の上で肉体を割かれ、血を流して死にました。神であり、人となったお方が苦しみを受け死にました。 [さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。] (マタイ27:45~51) 【イエス・キリストの復活】マタ:28:1~10 十字架上の死は金曜日の午後3時頃でした。急いで葬られ、日曜日の早朝、復活の姿を現されました。 [さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」]

さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

1月13日(月) 成人の日、おめでとうございます。 この日を迎えられた喜びに感謝して、主と共に歩んでいただきたいと思います。 今日は、マタイの福音書25~26章を読みましょう。 【イエス・キリストに反対した人々】 イエスの説教は、一般の人々にとっては慰めに満ちたわかりやすいものでした。また、イエスは多くの病人をいやしました。それで、一般のユダヤ人には歓迎され、尊敬されていました。反対していたのは主(おも)に宗教指導者でした。それで、一般の人々のいない夜の間にイエスは逮捕されました。 [さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。] (マタイ26:6~7) [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」] (マタイ26:31~34) イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。] (マタイ26:47~50)

だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

1月12日(日) 今日は、マタイの福音書23~24章を読みましょう。 【イエス・キリストに反対した人々】 ローマ大帝国の中のユダヤ地方は、他の地域に比べると変わった地方でした。外面的にはローマから派遣されてきた総督やローマ帝国に認められた領主によって納めれれていましたが、一歩人々の生活の中に入ると、完全な宗教社会でした。それは、旧約聖書を読み終わる頃に、このことがもっとよくわかってきます。 [そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。] (マタイ23:1~12)

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

1月11日(土) もう土曜日! そしてまた、連休! リズムが戻るのが難しいですね。でも、聖書通読は毎日リズムよくいたしましょう! 今日は、マタイの福音書21~22章を読みましょう。 【エルサレムで迎える最後の日々】 エルサレム入城から、イエス・キリストの十字架の死までは、1週間足らずです。 これらの短い日々、イエスは神殿を祈りの家とするように訴え、ユダヤ教指導者たちと論争を重ね、ますます彼らとの対立は決定的に避けられないものとなって行きました。 イエスは逮捕され、十字架を背負って、ドロローサの道をゴルゴダに向かって歩みます。 しかし、これは私たちへの福音の道でした。 [それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」] (マタイ21:1~3) [そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」] (マタイ22:35~40)

このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。

1月10日(金) 今日は、マタイの福音書19~20章を読みましょう。 イエス・キリストはエルサレムへの途上でさらに教えをします。 【離縁について教えます。】 [『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」] (マタイ19:5~6) 【子供を祝福します。】 [しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。] (マタイ19:14~15) 【金持ちの青年】 「イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 (マタイ19:21) 【ぶどう園の功労者のたとえ】 [このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。] (マタイ20:16)

見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

1月9日(木) 今日は、マタイの福音書17~18章を読みましょう。 イエスの姿が弟子たち三人の見ている前で神々しく光り輝き、モーセとエリヤが現れるという、神々しい出来事が起こりました。 イエスが彼らと語り合ったのは、旧約聖書を継承した救いであることを示し、また、エリヤが死ぬことなく昇天した人物であること、イエスもその昇天者であることを語っています。 [それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。] (マタイ17:1~5)

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

1月8日(水) 冷たい雨が降り続いています。 あったかい栄養のあるものをお腹に入れて、乗り切りましょう! 九州・沖縄地方はあったかいみたいですね。 今日は、マタイの福音書15~16章を読みましょう。 イエス・キリストの教えや、行ったことはよくわかりますが、ただ、最後までわかりにくい一つのことがありました。 それは、イエス・キリストが自分の死について予告し(マタイ16章と20章)、そのことにこだわりました。なぜでしょうか。そこにイエス・キリストの目的がありました。 読んでいてわからない箇所もあると思いますが、将来わかることを楽しみに、どんどん読み進んでください。 [そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。] (マタイ16:20~24)

天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。

1月7日(火) 東京五輪の開幕まで200日を切りましたね。 きっとあっという間に来て、あっという間に過ぎてしまうのかも。 今日は、マタイの福音書13~14章を読みましょう。 【イエス・キリストはたとえで話される】 [イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」] (マタイ13:35~36) 《種を蒔く人のたとえ》(マタイ13:1~9) 《毒麦のたとえ》(マタイ13:24~30) 《からし種とパン種のたとえ》(マタイ13:31~33) 《天の国のたとえ》(マタイ13:44~50) 【イエス・キリストのいやし・奇跡】 《五千人の給食》(マタイ14:13~21) 《湖の上を歩く》(マタイ14:22~33) 《ゲネサレ(ゲネサレト)で病人をいやす》(マタイ14:34~36)