ブログ – ページ 19 – 聖書検定協会公式サイト

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あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

10月22日(日) 今日は、詩編115篇と、コリント人への手紙 第一の5~6章を読みましょう。 「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。 あなたがたはパン種のないものだからです。 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、 パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」 (1コリ5:7~8) 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、 あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」 (1コリ6:19~20)

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

10月21日(土) 今日は、詩編114篇と、コリント人への手紙 第一の3~4章を読みましょう。 「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。 そして、ほかの人がその上に家を建てています。 しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。 その土台とはイエス・キリストです。 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。 その日がそれを明らかにするのです。 というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、 その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」 (1コリ3:10~16)

私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

10月20日(金) 今週はコリント人への手紙第一(コリント信徒への手紙一)を読みましょう。 今日は、詩編113篇と、コリント人への手紙 第一の1~2章を読みましょう。 「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。 それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。」 (1コリ2:12) パウロの伝える信仰は霊的な信仰です。すなわち、 聖霊が私たちに強く働きかけていることを信じ、聖霊の導きに従って生きる信仰です。 「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。 同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」 (1コリ2:11) 神が霊であっても人間の中に霊がなければ、神の霊を知ることはできません。 パウロは人間が体と知恵と心を持っただけのものではなく、 霊を内に秘めていることを当然のことと考えています。 人は自らの内にある霊によって、神の霊(聖霊)を受けることができます。 「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。 それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」 (1コリ2:14) 生まれながらに罪を持っている人は、神を知ることは出来ません。 仮に神を信じたとしても、本当の神では無く偶像を作ってしまいます。 ですから、生まれながらの人間は聖霊のことがわかりません。 しかし、イエス・キリストを信じる人は、必ず聖霊が働きかけているからこそ、 イエス・キリストを信じることができたのであって、霊的なものに目覚めてゆきます。 イエス・キリストを信じる人は、本当の神を信じる人であり、聖霊を信じる人です。 そこに達しない人を、ここでは生まれながらの自然の人と言っています。

もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです

10月19日(木) 秋らしいお天気が続いて、気持ちいいですね。 今日で、ローマ人への手紙は終わりです。 今日は、詩編112篇と、ローマ人への手紙14~16章の最後までを読みましょう。 「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。 ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」 (ロマ14:7~9) 「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、 今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、 信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、 あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、 イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。 アーメン。」 (ロマ16:25~27)

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

10月18日(水) 今日は、詩編111篇と、ローマ人への手紙11~13章を読みましょう。 【異邦人の救いの完成、救いのご計画の奥義】 「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。 それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。 その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。 『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』」 (ロマ11:25~27) 「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」 (ロマ12:4~5) 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」 (ロマ12:15) 「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。 あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。 というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」 (ロマ13:12~14)

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

10月17日(火) 今日は、詩編110篇と、ローマ人への手紙9~10章を読みましょう。 「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。 しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」 (ロマ10:1~4) ここで「彼ら」と言われているのは、旧約聖書の民イスラエル人です。 律法を与えられたのに傲慢になり、律法を守っている自分たちだけが救われると誤解していました。 神はそんなつもりで律法を与えたのではないと論じています。 律法そのものは良いものでも、これを受けた人の「罪」のゆえに、誤解が生じました。 パウロはこの誤解をしていた代表的な人でしたが、聖霊の導きで、正しい理解に進みました。 すなわち、根源的なあのアダムの罪からの救いは、 ただ神の恵みとしてのイエス・キリストの十字架によって与えられます。

御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

10月16日(月) 今日は、詩編109篇と、ローマ人への手紙7~8章を読みましょう。 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、 子としてくださる御霊を受けたのです。 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 もし子どもであるなら、相続人でもあります。 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、 私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」 (ロマ8:14~17) 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。 私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、 御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」 (ロマ8:26) 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、 どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。 死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、 私たちのためにとりなしていてくださるのです。 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。 患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。 私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、 これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、 後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、 私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 (ロマ8:32~39)

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

10月15日(日) 今日は、詩編108篇と、ローマ人への手紙5~6章を読みましょう。 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、 神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。 それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 (ロマ5:1~5) 【罪の支配の下ではなく、救われた恵みの中で積極的に行きなさい。】 信仰を持っても、生まれながらの罪はなくなってはいません。それは私たちが死ぬまで続きます。 しかし、恵みによって救われたたのも続きますから、信じて積極的に恵みの中で生きるように教えています。 これを聖霊に従って歩むものと表現しています。 「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。 なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」 (ロマ6:14) 「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。 その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。 しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 (ロマ6:22~23)

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

10月14日(土) 今日は、詩編107篇と、ローマ人への手紙3~4章を読みましょう。 「全ての人は生まれながらにして罪人だから、誰一人そのままでは救われない。」 というのを旧約聖書を自由に引用して、生まれながらの人間の罪を説得しようとしています。 引用箇所(詩篇14:1~3、53:2~4、5:9、140:3、10:7、イザヤ59:7,8、詩篇36:1) そして、「ただ信仰によって、神の恵みによって救われます。」は、ローマ人の手紙の主題です。 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、 神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、 それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 (ロマ3:21~24)

義人は信仰によって生きる。

10月13日(金) 今日から、パウロの13通の手紙を読みます。 「ローマ人への手紙(ローマ信徒への手紙)」から「ピレモンへの手紙(フィレモンへの手紙)」 までの13通は、まとめて「パウロの手紙」と呼んでいます。 今日は、詩編106篇と、ローマ人への手紙1~2章を読みましょう。 新約聖書の手紙も、今の私たちの手紙と同じ、私信です。 しかし、中にはキリスト教の信仰をわかりやすく、順序立てて論じたものもあります。 また、たとえ私信でも、当時できつつあった信者の群(教会)に当てて出されましたので、 あちこちで回覧されたり、書き写して残したりしたと想像されます。 「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。 『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」 (ロマ1:17) この聖句は「ローマ人への手紙」の中心主題です。 ですから、この手紙はいわゆる私信ではなく、信仰についての教えが順序正しく論じられているものです。