ブログ – ページ 182 – 聖書検定協会公式サイト

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ヨシュアは年を重ねて老人になった。

4月3日(水) 新入学、新入社、新しいスタートの季節ですね。 これからの人生が主の祝福に満ちたものとなりますようにお祈りします。 今日は、ヨシュア記13~15章を読みましょう。 13章から始まる後半は、占領地の分割です。 聖書を読むときに、(お持ちの方は)第3級聖書検定公式テキストの第4項「ヨシュア記」(20ページ)のカナンの地図を参照にして下さい。 「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。』」 (ヨシュア記13:1)

こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。

4月2日(火) 新しい元号は、令和(レイワ)となりましたね。 クリスチャンには、イエス様の例話(レイワ)「例え話」の意味であってほしいものですね。 今日は、ヨシュア記9~12章を読みましょう。 皆さま、ヨシュア記を読んで、どうかつまづかないようにしてください。 ヨシュア記は、平家物語のような一種の「戦記」です。 敵部族を、女も子どもも全て殺します。本当に神がこのように命じたのだろうかと思ってしまいます。 聖書は神のことが書いてありますが、これを書いたのは人間の手でした。 そこには誤解も生じたと思います。虐殺することが、神の考えだと早合点して、手段を選ばなかったのだとする説もあります。そして、それが神のお考えだと、確信して書き残したのが、ヨシュア記だと考える人もいます。 どこからこのような誤解が生じたのでしょうか。それは、カナン征服は神の約束であること、また、偶像神を拝む民は間違っており、滅ぼさなければならないと考えたのではないでしょうか。これは正しいことですが、この目的を達成しようとするあまり、手段を選ばなくなってしまったと考えるのです。「聖戦」のためには、何をしても構わない、という間違った考えに陥ったと思われます。難しい問題ですが、このような誤解も、包み隠さず書いてある「ヨシュア記」につまづかないで読んでください。 「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」 (ヨシュア記11:23)

七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。

4月1日(月) 今日は、ヨシュア記5~8章を読みましょう。 ヨルダン川を渡り終えたヨシュアは、神からの勇気百倍の励ましを受けます。 (ヨシュア記5:13~15) そして、川向こうの第一の町「エリコ」を攻略します。 「主はヨシュアに仰せられた。『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。』」 (ヨシュア記6:2~5)

ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

3月31日(日) 明日は新しい年号の発表があるありますね。 一体どんな年号でしょうか? 私たちはイエス様の生まれた暦と共に歩んでおります。 さて、今日から、聖書通読も第14週目に入ります。 「ヨシュア記」から「エステル記」までは歴史書です。 ページ数は多いですが、ストーリーは単純です。 約400年ぶりに、かつてアブラハムが住んでいたカナン(今のパレスチナ)に帰って来て、その土地を平定し、やがて王国を作り、分裂して、滅亡していった歴史です。 400年の留守の間に、カナンには多くの他民族が住み着いていました。ヨシュアを指導者として平定の戦いが始まります。まず、ヨルダン川を渡らねばなりません。 40年前に、自分たちの親が経験したあの「紅海を渡る奇跡」と同じことが起こりました。 「上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」 (ヨシュア記3:16~17)

彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。

3月30日(金) 今日は、申命記32~34章を読みましょう。 今日で「モーセ五書」読了です。 お疲れ様でした。 律法の内容と、その大切さをつくづく感じられたと思います。 この先、さらに読み進むと、旧約聖書全体の中で、結局はこの律法そのものが、旧約聖書の中心をなしていることが、わかってきます。 今後の歴史は、モーセの律法を守るか、守らないかが中心となっていきます。 もちろん、守りきれない弱い人間の罪の歴史が展開します。 明日からは、ヨシュア記に入ります。 「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」 (申命記34:10)

あなたのかごも、こね鉢も祝福される。

3月29日(金) 今日は、申命記28~31章を読みましょう。 申命記は、荒野の旅行も終わり、カナンを目前にして、モーセが死ぬ前に行った「決別説教」です。その内容は、律法の繰り返しとともに、律法を忠実に守るように、イスラエルの民に勧めています。 ①律法を忠実に守りなさい。(申29:9) ②律法を聞かせ、学ばせなさい。(申31:9~13) 一方、律法を守るならば、次のような祝福を約束されました。 「あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」 (申命記28:3~6)

脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

3月28日(木) 今日は、申命記24~27章を読みましょう。 26章には、美しい信仰告白的な祈りの文章があります。 「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」 (申命記26:5~10) また、申命記独特のものとして、次の文章があります。 「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」 (申命記25:4) これは、脱穀する牛への配慮を教えた規定ですが、パウロはこの規定を主の働き人に適応し、「複音を宣べ伝えるものが、福音の働きから生活の支えを得るように主が定めておられる。」と説明しています。 「聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。」 (1テモテ5:18)

木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。

3月27日(水) 今日は、申命記20~23章を読みましょう。 律法、律法の毎日で、皆さん嫌になっていませんか? これら、613もの多岐にわたる律法をすべて覚えたら、今なら、弁護士、医者、建築家、デザイナーなどプロの仕事に就けるでしょうね。 父祖アブラハムに対してたてられた「祝福の約束」は、イスラエルの民にとって良いものでした。しかし、全部覚えていても、残念ながら、厳守は出来ませんでした。 アダムの罪を引きずっている人間は、本当にどうしようもありません。 それゆえに、神は一方的に、この罪を贖うために、イエス・キリストを犠牲の供物としてくださいました。人は、ただ神の憐れみによって救われることになりました。 「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」 (申命記21:22~23) パウロは、このみことばから、私たちのために神の呪いを受けたキリストの十字架の意味を解き明かしています。 「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」 (ガラテヤ3:13)

彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。

3月26日(火) 今日は、申命記16~19章を読みましょう。 仮庵の祭り(申命記16:13~17) 「あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。」 仮庵の祭りは、オリーブ、ぶどう、いちじくなどの秋の実りの収穫の感謝祭でもあります。 モーセ五書の中から、【社会的】な律法を拾っていきましょう。 ①税金を払うように。(出エ30:11~13) ②さばき(裁判、議会)を行うこと。(民11:16) ③さばきに服従させること。(申17:11~12) ④公正なさばきを。(レビ 19:15) ⑤賄賂をとってなならない。(出エ23:8) ⑥危険な場所への注意。(申22:8) ⑦安息日を静かに過ごすように。(出エ16:29) 「彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。」 (申17:11~12)

七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。

3月25日(月) 今日は、まだちょっと早いけれど、お花見に行ってきます! さて、今日は申命記12~15章を読みましょう。 モーセ五書の中から、【農業】についての律法を拾っていきましょう。 ①刈り尽くしたり、落ち穂を拾ってはならない。(レビ23:22) ②種の純粋性を守りなさい。(レビ19:19) ③脱穀している牛に、くつこをかけてはならない。(申25:4) ④七年目に土地を休ませなさい。(レビ25:1~7) 七年目の休耕地は、一種の共有地のようになり、所有者が、自然に実るものすら取ることを禁じ、公共一般の人々のものとされました。七年目に休耕するということは、土地は神のものであり、人類の福祉のために神から与えられているという基本的な考えから出ていると思われます。 ⑤七年目のゆるし。(申15:1,2)  これは、直接農業と関係ありませんが、貧しい古代社会で、弱い者を助け、神の恵みを共に受けて生きていくようにとの教えです。 七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。 その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。 (申命記15:1,2)