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見よ。主を恐れること、これが知恵である。

6月15日(土) 今日はヨブ記25〜28章を読みましょう。 ビルダド(ビルダデ)の最後の言葉はわずか6節と短く、賛美の形式で神の偉大な支配を歌い上げ、それとは対照的に人間がいかに小さく汚れたものであるかを言っています。(25章) ヨブはビルダド(ビルダデ)へ反論します。 宇宙の創造主なる神の偉大さを賛美し、自分の潔白さを誓い、友人たちが悪人たちの行く末を説いてきたことを一蹴します。(26,27章) 28章は神の知恵を賛美する最も美しい章の一つです。 「こうして、神は人に仰せられた。『見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。』」 (ヨブ記28:28)

しかし、みこころは一つである。

6月14日(金) さて、今日はヨブ記22〜24章を読みましょう。 三人の友人がそれぞれ問いかけ、そのそれぞれにヨブが答えるという形式は崩れます。 ヨブの言葉の中に友人たちの主張と思われるものがあり、読み手は惑わされます。 呼ぶの雄弁な訴えを聞いたエリファズが登場し、ヨブが自分の非を認めるよう説得する。 エリファズは模範的な宗教家であり、教育者としてヨブの説得を行って来ました。 ヨブはもはや友人に直接答えるのではなく、独白になり、嘆きになり、激しさを増して強い願望の吐露となります。 「私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行なわれる。神は、私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある。」 (ヨブ記23:11-14)

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

6月13日(木) 今日はヨブ記19〜21章を読みましょう。 ヨブは「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩まし、そんな論法で私を砕くのか。」(19章)と友人たちに反論しますが、やがてそれは、孤独と嘆きに変わります。 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(19:25) この句はヨブ記の中で最も有名な一節です。 ヨブに災いを与えた神のみが、ヨブを回復することができ、そして終末の日には土から起き上がる復活の主がおられるます。

今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。

6月12日(水) 今日はヨブ記16〜18章を読みましょう。 ●ヨブの応答と嘆きは続きます。(16,17章) 「ヨブは答えて言った。そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。」 (16:1~4) 「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。」 (16:19~20) ●2番目に登場した友人ビルダド(ビルダデ)が2回目の意見をし、悪人の運命をヨブに   押し付けます。(18章) 「西に住む者は彼の日について驚き、東に住む者は恐怖に取りつかれる。不正をする者の住みかは、まことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」 (18:20~21)

人が死ぬと、生き返るでしょうか。

6月11日(火) 今日はヨブ記13〜15章を読みましょう。 ●ヨブは友人を非難し、神への心備えをします。(13:1~19) ●そして神に対して挑戦的主張をします。(13:20~28) ●さらに、人の運命のはかなさを訴えます。(14:1~12) ●ヨブの苦しみは極限状態に陥り、思考が混乱し、死後の命を期待したりします。(14:13~17) ●しかし、死後への淡い期待は瞬時にして取り去られ、再び絶望が襲ってきます。 一番目の友達(エリファズ)はヨブを攻撃し、不遜な態度を非難し、悪者の運命を示します。(15章) 「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」 (ヨブ記14:14)

知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。

6月10日(月) 今日はヨブ記9〜12章を読みましょう。 ヨブは二番目の友人(ビルダド/ビルダデ)の意見に答えます。(9章) 力と知恵に秀でた、正しい神と論じ合ってもとうてい勝てる相手ではない。 一体私にどんな罪があるのかと嘆き、生きることが嫌になり、生まれて来たことを後悔する。このような苦渋の中にあっても神に向かって述べる言葉は信頼に満ちている。 三番目の友人(ツォファル)が意見します。(11章) ツォフォルは神の知恵の偉大さを説いて、ヨブに罪があったことを認めさせようとします。 ヨブは三番目の友人(ツォファル)の意見に答えます。(12章) ヨブは神の知恵と力について語り始める。 「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」 (ヨブ記12:10~13)

私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら

6月9日(日) やはり「文学書」は読みやすいですね。 今日はヨブ記5〜8章を読みましょう。 第一の友の意見(昨日の通読箇所) ヨブが何か罪を犯したから不幸がやって来たと主張します。 それに対してのヨブの答えは(6章) 本当に、不幸や苦難の原因は罪なのでしょうか。そうとは思えないと、ヨブは神に訴えるように友に答えます。 また、二番目の友達が意見を言い、ヨブとその子供たちの罪を責めます。(8章) 「私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。」 (ヨブ記6:9~10)

私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。

6月8日(土) 今日から「文学書」に入ります。 ヨブ記の1~4章を読みましょう。  私たちがどのように生きることが最良の道であるかを聖書は教えます。もちろん神の示される道です。では、具体的にはどういう道でしょうか。お金のこと、仕事のこと、対人関係、苦しみに会った時の対処、これらに対していろいろな教訓があります。このようなことについて書いてある文書を「知恵文学」と一般に言われています。ヨブ記、箴言、伝道の書(コヘレトの言葉)がこれに当たります。詩の形式で語られます。イエス・キリストもこの形式をとって話をされたことがあります。(マタイ5章「さいわいなる者)  ヨブ記の訳者はわかりません。作られた年代もよくわかりませんが、一般に紀元前4世紀頃の作ではないかと考えられています。  ヨブは信仰あつく、正しい人でした。  ある日、サタンの試みがありました。(不幸がサタンから来るということが主題ではありません)  不幸に不幸が、苦しみに苦しみが重なることが私たちの人生にあります。一体なぜ正しい信仰のある人が苦難に合うのでしょうか。これこそが、ヨブ記の主題です。  友達が慰めに来てくれました。ところが慰めるどころかヨブを攻めて議論します。この議論が非常に長く第31章まで続きます。文学的に味わいのあるものです。  友人はヨブが何か罪を犯したため不幸がやって来たと主張します。私たちもよくバチが当たっとか、因果応報などと言いますが、ヨブ記の神kらの結論は何でしょうか? 「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」 (ヨブ記2:20~22)

ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。

6月7日(金) 今日でエステル記も最後です。 7~10章を読みましょう。 捕囚後のユダヤ人は、律法に書かれていない一つの祭りを制定しました。 それを「プリムの祭り」と言います。 これがどのような経過で作られたかが書いてあるのが、このエステル記です。 紀元前485年から465年に、バビロン捕囚時に根絶やしにされる計画から、ユダヤ人を救った物語です。 「アガグ人ハメダタの子で、全ユダヤ人を迫害する者ハマンが、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらんで、プル、すなわちくじを投げ、彼らをかき乱し、滅ぼそうとしたが、そのことが、王の耳にはいると、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたからである。こういうわけで、ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。」 (エステル記9:24~26) さて、以上でアダムから始まりアブラハムに立てられた神の祝福の約束と、民の罪の歴史は終わります。 お疲れ様でした。 しかし、完全に終わってしまったわけではありません。 神は一度立てられたあの約束は必ず守られます。この頃から四百数十年後、イエス・キリストをこの世に与えてくださいました。 アブラハムに対して立てられた約束は、忘れたわけではありませんでした。  この四百数十年の間に、エルサレムを中心としたユダヤ人の地域社会は、ペルシア、ギリシア、ローマと支配国は変わっても、大国の属領として生き続け、さらにユダヤ人は、外地に、主に商人として散在し、各地に会堂(シナゴーグ)を作って発展しました。これが後のパウロの伝道の拠点となるのです。

あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。

6月6日(木) 今日は、エステル記4~6章を読みましょう。 モルデカイは宦官ハタクを介してユダヤ人絶滅計画の一部始終をエステルに伝え、民族の危機を救うべく王妃自ら王に嘆願するように説得します。 「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」 (エステル記4:14)