ブログ – ページ 112 – 聖書検定協会公式サイト

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少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

10月29日(金) 今日は、詩編123篇と、コリント人への手紙 第二の7~9章を読みましょう。 7章は、「教会の悔い改めを喜ぶ」です。 8章、9章は、「和解のしるし」です。 エルサレムの貧しい聖なるものたちへの募金の「趣意書」のような内容です。 「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。 神は喜んで与える人を愛してくださいます。 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、 あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 『この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。』」と書いてあるとおりです。 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、 あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、 それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」 (2コリ9:6~11)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

10月28日(木) 今日は、詩編122篇と、コリント人への手紙 第二の5~6章を読みましょう。 パウロの伝道の熱意は、迫害者であったものが救われた喜びに発しているのは言うまでもありません。 そして、ここに書いているように、霊的な信仰を持ち地上でながらえるより、 天国に入ることの方がむしろ良いと言うほどの信仰になりました。 「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。 それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。 それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。 そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。 神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。 ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」 (2コリ5:1~8) 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。 神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。 私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。 それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 (2コリ5:17~21) 「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」 (2コリ6:2)

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

10月27日(水) 今日は、詩編121篇と、コリント人への手紙 第二の3~4章を読みましょう。 第3章は「新しい契約の奉仕者」、 第4章は「土の器に納めた宝」です。 「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、 栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 (2コリ3:17~18) 「すべてのことはあなたがたのためであり、 それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」 (2コリ4:15~18)

神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

10月26日(火) 今日から、コリント人への手紙 第二に入ります。 今日は、詩編120篇と、コリント人への手紙 第二の1~2章を読みましょう。 1~9章は「和解の手紙」です。 第1章は、「挨拶」に始まり、「苦難と感謝」、また「コリント訪問の延期」が第2章に渡ります。 「パウロの戦況と任務の弁明」が第7章4節まで続きます。 [しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。] (2コリ2:14~15)

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

10月25日(月) 今日は、詩編119篇と、コリント人への手紙 第一の15~16章を読みましょう。 宗教とか信仰とかに全く関心のない人、また無神論者には、聖霊とか、私たちのうちにある霊とか言っても、 架空のことのように思えて理解しにくいと思います。 しかし、パウロは自分の霊に神の霊が働きかけて、舌が自然に動き出して話し始める「異言」を常に体験していました。 従って、神の霊(聖霊)や人の霊が本当に存在するかどうかということは、問題ではなく、存在することは当然のことでした。 すなわち、パウロの教える「霊的な信仰」というのは、知的な理解ではなく、体験から出ている確信に基づいています。 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」 (1コリ12:20~26) 「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」 (1コリ12:51~55)

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

10月24日(日) 今日は、詩編118篇と、コリント人への手紙 第一の12~14章を読みましょう。 第12章は「九つの聖霊の賜物」が語られています。 知恵の言葉 知識の言葉 信仰 病気をいやす力 奇跡を行う力 預言する力 霊を見分ける力 異言を語る力 異言を解釈する力、 これらの九つの賜物です。賜物とは努力によって獲得できるものではなく、 全く神の恵みとして与えられるものです。 ですから、与えられないからといって不平を言うことはできませんし、 与えられたからといって誇ってもなりません。しかし、求めない人には、あたえようもありませんから、私たちは熱心に求める必要があります。 「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、 その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」 (1コリ12:11~12) 「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。 こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。 しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 (1コリ12:22~27)

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

10月23日(土) 今日は、詩編117篇と、コリント人への手紙 第一の9~11章を読みましょう。 第8章に続き、第9章は「偶像への供え物の問題」のうち2つの問題です。 ●使徒の自由 ●偶像に備えた肉に関する諸問題 「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。 神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。 むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」 (1コリ10:13~14) 第11章2~34節は「集会の秩序」です。 ●礼拝における男と女 ●主の晩餐 の二つの部分から成り立っています。 「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。 すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。 『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。 『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」 (1コリ11:23~26)

人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

10月22日(金) 今日は、詩編116篇と、コリント人への手紙 第一の7~8章を読みましょう。 第7章は結婚の問題に対する質問のパウロの回答です。 ●性のあり方 ●独身・結婚・離婚 ●未信者との結婚生活 ●終末論的自由 ●乙女のこと の五つです。 第8章は「偶像への供え物の問題」のうち ●知識と愛です。 「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。 しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」 (1コリ8:1~3)

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

10月21日(木) 今日は、詩編115篇と、コリント人への手紙 第一の5~6章を読みましょう。 「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。 あなたがたはパン種のないものだからです。 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、 パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」 (1コリ5:7~8) 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、 あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」 (1コリ6:19~20)

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

10月20日(水) 今日は、詩編114篇と、コリント人への手紙 第一の3~4章を読みましょう。 「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。 そして、ほかの人がその上に家を建てています。 しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。 その土台とはイエス・キリストです。 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。 その日がそれを明らかにするのです。 というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、 その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」 (1コリ3:10~16)