ブログ – ページ 78 – 聖書検定協会公式サイト

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子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。

10月11日(火) 今日は、詩編102篇と、ルカの福音書17~18章を読みましょう。 イエスは、「赦し、信仰、奉仕」について語ります。 重い皮膚病を患っている十人の人をいやします。 「神の国が来る」と語ります。 「やもめと裁判官」のたとえを話します。 「パリサイ人と取税人」のたとえを話します。 金持ちの議員の話をします。 子供を祝福します。 「死と復活」を予告します。 エリコの近くで盲人をいやします。 「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。 ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。 『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。』」 (ルカの福音書18:15~18)

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。

10月10日(月) 今日は、詩編101篇と、ルカの福音書15~16章を読みましょう。 放蕩息子のたとえはルカの福音書だけに書いてあります。 この大変わかりやすいたとえ話は、人生に失敗して悔やんでいる人に対する神の愛を教えています。 また、罪を告白してへりくだる者を神はゆるし、祝福してくださることを教えています。 また、神がそのようなお方であるから、私たちもそのように地上で生活し、 そのような天国に入ることを期待することを教えています。 「息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。 『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」 (ルカの福音書15:21~24)

それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。

10月9日(日) 今日は、詩編100篇と、ルカの福音書13~14章を読みましょう。 「そこで、イエスはこう言われた。 『神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。 それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。』 またこう言われた。 『神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。 女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。』」 (ルカの福音書13:18~21) からし種は小さな種ですが、3メートルにも及ぶ大きな木になり、そこに鳥が来て、実った種を食べるそうです。 パン種もほんのわずかでパンを大きく膨らませます。 他方、神の国は死後の天国を指す語であるとともに、地上の教会(信者の群れ)を指す語でもあります。 この場合は、地上の教会を指しています。このたとえ話の通り、のちに信者の数は急速に増え、今も増え続けています。 「また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。 『昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。 でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。 祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。』」 (ルカの福音書14:12~14) 報いを求めて何かをするのではなく、報いを求めないで人を愛することを教えています。 神はそういうお方であることを教えています。 これは地上の教会であるべき姿を教えてもいます。また天上の神の国(天国)の様子も教えています。 イエス・キリストはこのように私たちの地上での具体的な生き方を教えました。

神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

10月8日(土) 今週はルカウィークです。 今日は、詩編99篇と、ルカの福音書11~12章を読みましょう。 【迫り来る危機を前にした教え】 ●偽善に気をつけさせる ●真に恐るべき方を教える ●イエスを人の前で認めるものは、神の御使の前で認められる ●「愚かな金持ち」のたとえを話す ●思い悩まず、神の国を第一とせよ ●目を覚ましている僕 ●実のならないいちじくの木のたとえ 「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、 このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。 ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。 ああ、信仰の薄い人たち。何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、 と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。 しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。 そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」 (ルカの福音書12:27~31)

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

10月7日(金) 今日は、詩編98篇と、ルカの福音書9~10章を読みましょう。 イエス・キリストは、弟子を厳しく訓練しました。 その目的は、将来ご自分がいなくなった時、弟子たちが教会を中心にした伝道をするためでした。 弟子たちはこのことに気付いてはいませんでしたが、あとで深く自覚したことだと思います。 もちろん弟子たちは順調に成長しませんでした。最後には、イエスを捨ててしまいます。 しかし、そのような挫折によって弟子たちは本当の信仰に目覚め、強い信仰を持った人になってゆきました。 もちろん最終的には、聖霊が降り、その時彼らは新しい者にされてゆきました。 「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、 わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」 (ルカの福音書9:23~24)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

10月6日(木) 今日は、詩編97篇と、ルカの福音書7~8章を読みましょう。 【イエス百人隊長の僕をいやす】 「イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、 百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。 ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」 (ルカの福音書7:6~7) 【やもめの息子を生き返らせる】 「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、 「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、 ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」 (ルカの福音書7:13~15) 【やもめの息子を生き返らせる】 【洗礼者ヨハネとイエス】 【罪深い女を赦す】 【種を蒔く人のたとえ】 【ともし火のたとえ】 【突風を静める】 【悪魔に取りつかれたゲラさの人をいやす】 【ヤイロの娘とイエスの服に触れる女】 「ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。 だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。 すると、たちどころに出血が止まった。 イエスは、『わたしにさわったのは、だれですか。』と言われた。 みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。』と言った。 しかし、イエスは、『だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。』と言われた。 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、 イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。 そこで、イエスは彼女に言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。』」 (ルカの福音書8:43~48)

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

10月5日(水) 今日は、詩編96篇と、ルカの福音書5~6章を読みましょう。 「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、 「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」そこで、イエスは答えて言われた。 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、 罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 (ルカの福音書5:27~32) 取税人とは、ローマ帝国のために、あくどい方法で税を取り立てる人で、同じユダヤ人でありながら、宗教社会の一員とは認められませんでした。 そのような人の心の中はどんなでしょうか。イエスは、どんな人でもその人を地球より重い一人の人としてご覧になりました。 このような考えも、当時としては革命的な考えだったと思われます。 「それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、 多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。」 (ルカの福音書6:17~19) 他の福音書と同じように、ルカによる福音書も、イエスが病人を癒したことをたくさん書いています。 今でもそうですが、当時としては病人はもっと可哀想な人々でした。神の子キリストに触れるだけで、病気という敵は直ちに退散しました。

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

10月4日(火) 今日は、詩編95篇と、ルカの福音書3~4章を読みましょう。 イエスが成人となり、公生涯に入られた時、イエスが住んでいたガリラヤは、 ユダヤ人の血の混ざった土地の有力者ヘロデという人が領主でした。 他方、エルサレムのあるユダヤはローマから派遣されていたポンテオ・ピラトという人が総督として治めていました。 もちろん、両地方に強大なローマ大帝国の下でのことでした。このような外面的な世界とは別に、 ユダヤ人は神殿を中心にして、一生懸命に律法を学び、これを守るように努力して生きていました。 大祭司、祭司、レビ人を中心に、律法学者や熱心なパリサイ派の人々の指導のもとに、 民衆の生活は営まれていたと思われます。イエスは、神殿を中心とした宗教社会にも、 律法を厳格に守ることが、信仰に取って代わられていることにも反対しました。 それは、当時のユダヤ人の宗教社会を根底から覆すことを意味していました。 しかも、そのことを権威を持って非常にはっきりと言われました。 それで、神に熱心である人々が、神の子を迫害するという結果になってゆきます。 ガリラヤとユダには、会堂があちこちにありました。 一つしかなかった神殿とは、同じ礼拝といえども内容は違っていました。 神殿は犠牲を捧げることを中心とした礼拝を行い、会堂は、律法を学んだり、祈ったりすることを中心とした礼拝でした。 イエスは、その会堂で話をしました。その内容は、異邦人にも救いが及ぶということでした。 今考えてみればごく当然のことですが、 当時のユダヤ人は自分たちが特別な民族(律法を与えられた民族)と思っていましたから手のつけようがないほど、 神のみ心がわかっていなかったのでしょう。 「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、 そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、 自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。 『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」 (ルカの福音書3:21~22)

マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

10月3日(月) 晴れの日が続きます。 気持ち良いですね。 今日は、詩編94篇と、ルカの福音書1~2章を読みましょう。 新約聖書は、最初はギリシャ語で書かれました。 ルカによる福音書のそのギリシャ語はとてもよく練られた美しい文章だそうです。 全体の構成もよく考えられています。 最初の序文までついています。 その序文に出てくるテオピロ(テオフィロ)という人が、どんな人であるかはわかりません。 きっと高貴な地位のある親しい人に書いて差し上げたのだと思います。 書いたルカという人は、使徒パウロと伝道旅行をした医者でありましたから、 きっとたくさんの友人、知人を持っていたと思われます。 マルコによる福音書は、イエスの誕生について何も語らず、 公生涯だけを書いています。しかし、ルカは1 章、2章で詳しく書いています。 マリヤがうたった歌(詩)は初代のクリスチャンたちによって節をつけて歌われたものと思われます。 「マリヤは言った。 『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。 その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。 低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。』」 (ルカの福音書1:46~55)

あの方はよみがえられました。ここにはおられません。

10月2日(日) 今日は、詩編93篇と、マルコの福音書15~16章の最後まで読みましょう。 ピラトは「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねます。 そして、 死刑の判決を受けます。 兵士から屈辱されます。 そして、 十字架につけられます。 イエスは死に、墓に葬られます。 3日後、墓は空っぽで、イエスは復活します。 「青年は言った。『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。 あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。』」 (マルコ16:6)