ブログ – ページ 77 – 聖書検定協会公式サイト

ブログ

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

10月21日(金) 今日は、詩編111篇と、ローマ人への手紙11~13章を読みましょう。 【異邦人の救いの完成、救いのご計画の奥義】 「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。 それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。 その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。 『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』」 (ロマ11:25~27) 「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」 (ロマ12:4~5) 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」 (ロマ12:15) 「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。 あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。 というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」 (ロマ13:12~14)

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

10月20日(木) 今日は、詩編110篇と、ローマ人への手紙9~10章を読みましょう。 「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。 しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」 (ロマ10:1~4) ここで「彼ら」と言われているのは、旧約聖書の民イスラエル人です。 律法を与えられたのに傲慢になり、律法を守っている自分たちだけが救われると誤解していました。 神はそんなつもりで律法を与えたのではないと論じています。 律法そのものは良いものでも、これを受けた人の「罪」のゆえに、誤解が生じました。 パウロはこの誤解をしていた代表的な人でしたが、聖霊の導きで、正しい理解に進みました。 すなわち、根源的なあのアダムの罪からの救いは、 ただ神の恵みとしてのイエス・キリストの十字架によって与えられます。

御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

0月19日(水) 今日は、詩編109篇と、ローマ人への手紙7~8章を読みましょう。 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、 子としてくださる御霊を受けたのです。 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 もし子どもであるなら、相続人でもあります。 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、 私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」 (ロマ8:14~17) 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。 私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、 御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」 (ロマ8:26) 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、 どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。 死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、 私たちのためにとりなしていてくださるのです。 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。 患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。 私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、 これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、 後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、 私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 (ロマ8:32~39)

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

10月18日(火) 今日は、詩編108篇と、ローマ人への手紙5~6章を読みましょう。 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、 神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。 それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。 なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 (ロマ5:1~5) 【罪の支配の下ではなく、救われた恵みの中で積極的に行きなさい。】 信仰を持っても、生まれながらの罪はなくなってはいません。それは私たちが死ぬまで続きます。 しかし、恵みによって救われたたのも続きますから、信じて積極的に恵みの中で生きるように教えています。 これを聖霊に従って歩むものと表現しています。 「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。 なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」 (ロマ6:14) 「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。 その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。 しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 (ロマ6:22~23)

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

10月16日(日) 今日は、詩編107篇と、ローマ人への手紙3~4章を読みましょう。 「全ての人は生まれながらにして罪人だから、誰一人そのままでは救われない。」 というのを旧約聖書を自由に引用して、生まれながらの人間の罪を説得しようとしています。 引用箇所(詩篇14:1~3、53:2~4、5:9、140:3、10:7、イザヤ59:7,8、詩篇36:1) そして、「ただ信仰によって、神の恵みによって救われます。」は、ローマ人の手紙の主題です。 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、 神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、 それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 (ロマ3:21~24)

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

10月16日(日) 今日は、詩編107篇と、ローマ人への手紙3~4章を読みましょう。 「全ての人は生まれながらにして罪人だから、誰一人そのままでは救われない。」 というのを旧約聖書を自由に引用して、生まれながらの人間の罪を説得しようとしています。 引用箇所(詩篇14:1~3、53:2~4、5:9、140:3、10:7、イザヤ59:7,8、詩篇36:1) そして、「ただ信仰によって、神の恵みによって救われます。」は、ローマ人の手紙の主題です。 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、 神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、 それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 (ロマ3:21~24)

義人は信仰によって生きる。

10月15日(土) 今日から、パウロの13通の手紙を読みます。 「ローマ人への手紙(ローマ信徒への手紙)」から「ピレモンへの手紙(フィレモンへの手紙)」 までの13通は、まとめて「パウロの手紙」と呼んでいます。 今日は、詩編106篇と、ローマ人への手紙1~2章を読みましょう。 新約聖書の手紙も、今の私たちの手紙と同じ、私信です。 しかし、中にはキリスト教の信仰をわかりやすく、順序立てて論じたものもあります。 また、たとえ私信でも、当時できつつあった信者の群(教会)に当てて出されましたので、 あちこちで回覧されたり、書き写して残したりしたと想像されます。 「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。 『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」 (ロマ1:17) この聖句は「ローマ人への手紙」の中心主題です。 ですから、この手紙はいわゆる私信ではなく、信仰についての教えが順序正しく論じられているものです。

ここにはおられません。よみがえられたのです。

10月14日(金) 今日でルカの福音書は終わりですね。 今日は、詩編105篇と、ルカの福音書23~24章を読みましょう。 今年の初めに、マタイの福音書、ヨハネの福音書を読みましたので、今日で福音書を読み終わることになります。 四つの福音書共に、十字架と復活を中心としたイエス・キリストの事実の証言の書であることがわかります。 内容は重複するところも多くありますが、四つの福音書を通して私たちはイエス・キリストの生涯と教えを知ることができます。 生涯に関して言えば、大切なことは、福音書記者が十分に書き残してくれています。 「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。 『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。 まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』 女たちはイエスのみことばを思い出した。」 (ルカの福音書241:1~8)

そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

10月13日(木) 今日は、詩編104篇と、ルカの福音書21~22章を読みましょう。 キリストの再臨は、言葉で表現できることではありませんから、 初めて読む人にとっては、恐ろしいことのように感じられrかもしれません。 しかし、信仰を持って受け入れる時、だんだん喜びの希望へと変わってゆきます。 「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」 (ルカの福音書21:25~28)

祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。

10月11日(水) 今日は、詩編103篇と、ルカの福音書19~20章を読みましょう。 【取税人ザアカイ】ルカ19:1~10 これは実際にあった話です。ザアカイは金持ちでした。しかし、人生に行き詰まり、救いを求めていました。 イエス・キリストは、このように社会からつまはじきにされた人、人生に失敗した人、 失われたような人などに特別な同情を寄せました。 これは、大変わかりやすい神の愛の説明になっています。 また、地上の神の国である教会のあるべき姿を教え、 天上の神の国(天国)の様子を教え、さらに、私たちの今の生き方を教えています。 【最後の一週間】ルカ19:28~40 ここから最後の一週間が始まります。 全体の四分の一が最後の一週間ですから、ここに重点を置いて福音書を書いていることがわかります。 ゼカリヤ9:9は、メシヤがろばの子に乗ってくることを予言しています。 イエスはここにきて、公然とメシヤであることを示し始めました。 十字架と復活に向かって進まれます。 「オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、 イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。 『向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。 それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。 「主がお入用なのです。」』」使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。 弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。 そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、 自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。 「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」] (ルカの福音書19:29~38)