ブログ – ページ 246 – 聖書検定協会公式サイト

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父よ。時が来ました。

1月24日 今日はヨハネの福音書17章、18章を読みましょう。 聖書を通読するときはいつもイエス・キリストの十字架の窓を通して読むことが大切です。 今日は、これからイエスが十字架にかかろうとするところを読んでいるので、ドキドキしますよね。 しかし、イエスの十字架の目的を知り、その十字架の窓から見る景色は、感謝でしかありません。   「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。 『父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、 あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、 あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』」 ヨハネ17:1~3

わたしはぶどうの木

1月23日、昨夜は大雪になってしまいました。 雪国の方には申し訳ないけれど、東京は大騒ぎです。 しかし、雪が降り積もると、シーンとするのですね。 人も、車も通らなくて、ただ雪がしんしんと降っています。 さて、さて、今日はヨハネの福音書15章、16章を読みましょう。 福音書は、神が人となった御方、イエス・キリストの教えられたことと、 なされたことが書いてあります。 特に、十字架で死に、復活されたことが書いてあります。 その目的は、五日に渡って書いた五つのことに要約されます。 旧約聖書も、新約聖書も、この五つの教えを明らかにするために書かれている膨大な書物なのです。   「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、 そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」 ヨハネ15:5

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

1月22日 今日は全国的にお天気が悪く、北日本や、東京23区までも、夕方から雪になるそうです。 本当に雪に弱い東京です。 さて、今日はヨハネの福音書13章、14章を読みましょう。 イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪はゆるされ、 また、たとえ死んでも、永遠の命が約束されていることを信じて生きてゆけることは、 とても嬉しいことです。 この希望に満ちた明るい生き方を示すために、キリストは死に、また復活されました。 十字架の目的その五は「新しく生まれかわる」です。   「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」 ヨハネ14:6

ラザロよ。出て来なさい。

1月21日、日曜日です。 驚くことに、聖書通読、第4週目に入りました。 今日はヨハネの福音書11章、12章を読みましょう。 私たちは、死んだらどうなるのでしょうか? これには誰も答えることはできませんね。証明できないからです。 しかし、イエス・キリストは、人が死んだ後、新しい体をもってよみがえることを見せました。 そして、神の国において永遠に生きます。 イエスはこのことを示すために、人々の見ている前で、十字架の上で死に、 大勢の人々の前に復活されました。 十字架の目的のその四は、「永遠の命の約束」です。   「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」 ヨハネ11:25,26 「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。 彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」 ヨハネ11:43,44

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

1月20日、もう土曜日!早いですね。 今日はヨハネの福音書9章、10章を読みましょう。 栄光の神が人となったお方、イエス・キリストは、 私たちが受ける屈辱の中で、最もひどい屈辱を受け、 私たちが経験する苦しみの中で、最も大きな苦しみを受けました。 キリストは言います。 「わたしはあなたの屈辱も苦しみも、よくわかります。 わたしはあなたと共にいます。」 キリストは、苦しみ、悲しむ者の友となるため、十字架の上で死なれたのです。 十字架の目的のその三は、「私たちの重荷を共に背負ってくださる」ということです。   「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。 また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」 ヨハネ10:9~11  

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

1月19日 今日はヨハネの福音書7章、8章を読みましょう。(少々長いです。がんばって!) 十字架によって罪赦された私たちは、 清く正しい、全知全能な神の御前に安心して出ることができるようになりました。 神と仲良く交際をしても良くなりました。 この関係を作り上げるために、 神が人となったお方、すなわち、イエス・キリストは十字架の上で人間の犠牲となってくださいました。 十字架の目的のその二は「人と神の和解」です。   「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 ヨハネ7:37,38

わたしがいのちのパンです。

1月18日 「一緒に通読をしているので、挫折しないで読み進められる」との報告をいただきました。 感謝です。みなさま。励まし合いながら読み進めましょう! 今日は、ヨハネ5章、6章を読みましょう。 イエス・キリストの十字架の目的の第一は、 私たちの罪の一方的なゆるしでした。 イエス・キリストを私たちが、心の中に信じる時、 神が私たちの中にある罪を清めて、無しにしてくださるということです。   「わたしがいのちのパンです。 わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 ヨハネ6:35

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

1月17日。今年は春が早いそうですね。 今日は、ヨハネの福音書3章、4章を読みましょう。 イエス・キリストは、なぜ十字架の上で殺されたのでしょう。 「人は真心と愛をもって、唯一の神を信じよう」というイエスに対し、 「戒律を厳格に守るべき」と言う人々との意見の対立から、 イエス・キリストは抹殺されました。 しかし、イエスは深いお考えがあり自ら死を選ばれたのです。 これこそが、最も大切なキリスト信仰の核心と言えます。   「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」 ヨハネ3:16~17

初めに、ことばがあった。

1月16日 みなさま、マタイの福音書は読み終えましたか? 予定通り読むことができたとの嬉しい報告をいただきました。 さて、今日からは、ヨハネの福音書1章、2章を読みましょう。 聖書の核心はイエス・キリストの十字架(死と復活)です。 旧約聖書は、そのそびえ立つ山に向かって書かれています。 その頂上について細かく説明しているのが、新約聖書です。 十字架という窓を通して聖書全体を見るように読みましょう。   「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」 ヨハネ1:1~5

この方はまことに神の子であった。

1月15日、今日でマタイは最後です。 マタイ27章、28章を読みましょう。 イエス・キリストが殺されたのは、過越の祭という、 ユダヤ人にとって一番大きな宗教祭日の期間でした。 神であり、人となったお方は、金曜日の午後三時に、 あたかも犠牲の小羊のように十字架上で肉体を裂かれ、 血を流して静かに殺されてゆきました。 そして、墓に葬られたイエスは日曜日の早朝、復活の姿を現されました。 十字架の死も事実。復活も事実。 この驚くべき事実をありのままに記録、証言されているのが福音書です。 明日からは、別な角度から書かれた、ヨハネの福音書に進みましょう!   「この方はまことに神の子であった。」 マタイ27:54 「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。 そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28:18〜20