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主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。

4月6日 今日は、ヨシュア記19~21章を読みましょう。 カナンの土地配分の白地図を載せました。 (もっと早くに載せたら良かったと思いましたが) ヨシュア記に出てきた定着部族名を見つけて、印をつけてみてください。 「こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。 主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」 (ヨシュア記21:43,45)

それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。

4月5日 寒暖の差が激しいので、風邪などひかれないように、天気予報をよく見てくださいね。 今日は、ヨシュア記16~18章を読みましょう。 ところで、ヨシュアという名は、ヘブライ語の名前です。 これを新約聖書に書かれたギリシャ語に書き換えると「イエースース」すなわち、 私たちが日本語の聖書で訳している「イエス」になります。 では、次のことを考えながら、残りのヨシュア記を読んでみてください。 「過越の小羊の祭り」の時に、イエス・キリストは、その小羊のように十字架上で死にました。 旧約聖書は時々、イエス・キリストを指し示すようなことが書いてあります。 「ヨシュア記」と「イエス・キリスト」にはどのような関係があると考えられますか? 想像しながら読んでみてください。 「するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。『あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。』」 (ヨシュア記17:17,18)

ヨシュアは年を重ねて老人になった。

4月4日 新入学、新入社、新しいスタートが祝福に満ちますようにお祈りします。 今日は、ヨシュア記13~15章を読みましょう。 13章から始まる後半は、占領地の分割です。 聖書を読むときに、(お持ちの方は)第3級聖書検定公式テキストの第4項「ヨシュア記」(20ページ)のカナンの地図を参照にして下さい。 「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。』」 (ヨシュア記13:1)

こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。

4月3日 今日は、ヨシュア記9~12章を読みましょう。 皆さま、ヨシュア記を読んで、どうかつまづかないようにしてください。 ヨシュア記は、平家物語のような一種の「戦記」です。 敵部族を、女も子どもも全て殺します。本当に神がこのように命じたのだろうかと思ってしまいます。  聖書は神のことが書いてありますが、これを書いたのは人間の手でした。 そこには誤解も生じたと思います。虐殺することが、神の考えだと早合点して、手段を選ばなかったのだとする説もあります。そして、それが神のお考えだと、確信して書き残したのが、ヨシュア記だと考える人もいます。  どこからこのような誤解が生じたのでしょうか。それは、カナン征服は神の約束であること、また、偶像神を拝む民は間違っており、滅ぼさなければならないと考えたのではないでしょうか。これは正しいことですが、この目的を達成しようとするあまり、手段を選ばなくなってしまったと考えるのです。「聖戦」のためには、何をしても構わない、という間違った考えに陥ったと思われます。難しい問題ですが、このような誤解も、包み隠さず書いてある「ヨシュア記」につまづかないで読んでください。 「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」 (ヨシュア記11:23)

七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。

4月2日 皆さま、申命記を読み終えたとのご報告をありがとうございます。 昨日は、ヨシュア記の聖書通読の箇所をうっかり書くのを忘れてすみませんでした。 昨日がヨシュア記1~4章でした。 今日は、ヨシュア記5~8章を読みましょう。 ヨルダン川を渡り終えたヨシュアは、神からの勇気百倍の励ましを受けます。 (ヨシュア記5:13~15) そして、川向こうの第一の町「エリコ」を攻略します。 「主はヨシュアに仰せられた。『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。』」 (ヨシュア記6:2~5)

ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

4月1日、Easter Sunday Happy Easter!! 復活祭、おめでとうございます。 今日から、聖書通読も第14週目に入ります。 「ヨシュア記」から「エステル記」までは歴史書です。 ページ数は多いですが、ストーリーは単純です。   約400年ぶりに、かつてアブラハムが住んでいたカナン(今のパレスチナ)に帰って来て、その土地を平定し、やがて王国を作り、分裂して、滅亡していった歴史です。 400年の留守の間に、カナンには多くの他民族が住み着いていました。ヨシュアを指導者として平定の戦いが始まります。まず、ヨルダン川を渡らねばなりません。 40年前に、自分たちの親が経験したあの「紅海を渡る奇跡」と同じことが起こりました。   「上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」 (ヨシュア記3:16~17)

彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。

3月31日 昨日の金曜日は、Good Friday! イエス・キリストが十字架にかかられた日でした。 そして、明日の日曜日は、死を打ち破り、三日目に復活された、Easter Sunday 復活祭です。   さて、今日は、申命記32~34章を読みましょう。 今日で「モーセ五書」読了です。 お疲れ様でした。 律法の内容と、その大切さをつくづく感じられたと思います。 この先、さらに読み進むと、旧約聖書全体の中で、結局はこの律法そのものが、旧約聖書の中心をなしていることが、わかってきます。 今後の歴史は、モーセの律法を守るか、守らないかが中心となっていきます。 もちろん、守りきれない弱い人間の罪の歴史が展開します。   明日からは、ヨシュア記に入ります。   「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」 (申命記34:10)

あなたのかごも、こね鉢も祝福される。

3月30日 今日は、申命記28~31章を読みましょう。 申命記は、荒野の旅行も終わり、カナンを目前にして、モーセが死ぬ前に行った「決別説教」です。その内容は、律法の繰り返しとともに、律法を忠実に守るように、イスラエルの民に勧めています。 ①律法を忠実に守りなさい。(申29:9) ②律法を聞かせ、学ばせなさい。(申31:9~13)   一方、律法を守るならば、次のような祝福を約束されました。 「あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。 あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」 (申命記28:3~6)

脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

3月29日 今日は、申命記24~27章を読みましょう。 26章には、美しい信仰告白的な祈りの文章があります。 「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」 (申命記26:5~10)   また、申命記独特のものとして、次の文章があります。 「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」 (申命記25:4)   これは、脱穀する牛への配慮を教えた規定ですが、パウロはこの規定を主の働き人に適応し、「福音を宣べ伝えるものが、福音の働きから生活の支えを得るように主が定めておられる。」と説明しています。   「聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。」 (1テモテ5:18)