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知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。

6月11日(火) 今日はヨブ記9~12章を読みましょう。 ヨブは二番目の友人(ビルダド/ビルダデ)の意見に答えます。(9章) 力と知恵に秀でた、正しい神と論じ合ってもとうてい勝てる相手ではない。 一体私にどんな罪があるのかと嘆き、生きることが嫌になり、生まれて来たことを後悔する。このような苦渋の中にあっても神に向かって述べる言葉は信頼に満ちている。 三番目の友人(ツォファル)が意見します。(11章) ツォフォルは神の知恵の偉大さを説いて、ヨブに罪があったことを認めさせようとします。 ヨブは三番目の友人(ツォファル)の意見に答えます。(12章) ヨブは神の知恵と力について語り始める。 「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」 (ヨブ記12:10~13)

私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら

6月10日(月) やはり「文学書」は読みやすいですね。 今日はヨブ記5~8章を読みましょう。 第一の友の意見(昨日の通読箇所) ヨブが何か罪を犯したから不幸がやって来たと主張します。 それに対してのヨブの答えは(6章) 本当に、不幸や苦難の原因は罪なのでしょうか。そうとは思えないと、ヨブは神に訴えるように友に答えます。 また、二番目の友達が意見を言い、ヨブとその子供たちの罪を責めます。(8章) 「私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。」 (ヨブ記6:9~10)

私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。

6月9日(日) 今日から「文学書」に入ります。 ヨブ記の1~4章を読みましょう。 私たちがどのように生きることが最良の道であるかを聖書は教えます。もちろん神の示される道です。では、具体的にはどういう道でしょうか。お金のこと、仕事のこと、対人関係、苦しみに会った時の対処、これらに対していろいろな教訓があります。このようなことについて書いてある文書を「知恵文学」と一般に言われています。ヨブ記、箴言、伝道の書(コヘレトの言葉)がこれに当たります。詩の形式で語られます。イエス・キリストもこの形式をとって話をされたことがあります。(マタイ5章「さいわいなる者) ヨブ記の尺者はわかりません。作られた年代もよくわかりませんが、一般に紀元前4世紀頃の作ではないかと考えられています。 ヨブは信仰あつく、正しい人でした。 ある日、サタンの試みがありました。(不幸がサタンから来るということが主題ではありません) 不幸に不幸が、苦しみに苦しみが重なることが私たちの人生にあります。一体なぜ正しい信仰のある人が苦難に合うのでしょうか。これこそが、ヨブ記の主題です。 友達が慰めに来てくれました。ところが慰めるどころかヨブを攻めて議論します。この議論が非常に長く第31章まで続きます。文学的に味わいのあるものです。 友人はヨブが何か罪を犯したため不幸がやって来たと主張します。私たちもよくバチが当たっとか、因果応報などと言いますが、ヨブ記の神kらの結論は何でしょうか? 「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」 (ヨブ記2:20~22)

ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。

6月8日(土) 令和元年の梅雨入りは少しイレギュラーみたいですね。 沖縄地方はもうすでに梅雨に入っていましたが、 九州北部、中・四国、近畿よりも先に、 東海、関東甲信、北陸、東北南部が梅雨入りしたみたいです。 ここ銀座あたりも、時化のような激しい雨が降り続きましたよ。 さて、さて、 今日でエステル記も最後です。 7~10章を読みましょう。 捕囚後のユダヤ人は、律法に書かれていない一つの祭りを制定しました。 それを「プリムの祭り」と言います。 これがどのような経過で作られたかが書いてあるのが、このエステル記です。 紀元前485年から465年に、バビロン捕囚時に根絶やしにされる計画から、ユダヤ人を救った物語です。 「アガグ人ハメダタの子で、全ユダヤ人を迫害する者ハマンが、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらんで、プル、すなわちくじを投げ、彼らをかき乱し、滅ぼそうとしたが、そのことが、王の耳にはいると、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたからである。こういうわけで、ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。」 (エステル記9:24~26) さて、以上でアダムから始まりアブラハムに立てられた神の祝福の約束と、民の罪の歴史は終わります。 お疲れ様でした。 しかし、完全に終わってしまったわけではありません。 神は一度立てられたあの約束は必ず守られます。この頃から四百数十年後、イエス・キリストをこの世に与えてくださいました。 アブラハムに対して立てられた約束は、忘れたわけではありませんでした。 この四百数十年の間に、エルサレムを中心としたユダヤ人の地域社会は、ペルシア、ギリシア、ローマと支配国は変わっても、大国の属領として生き続け、さらにユダヤ人は、外地に、主に商人として散在し、各地に会堂(シナゴーグ)を作って発展しました。これが後のパウロの伝道の拠点となるのです。

あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。

6月7日(金) 今日は、エステル記4~6章を読みましょう。 モルデカイは宦官ハタクを介してユダヤ人絶滅計画の一部始終をエステルに伝え、民族の危機を救うべく王妃自ら王に嘆願するように説得します。 「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」 (エステル記4:14)

エステルは自分の民族をも、自分の生まれをも明かさなかった。

6月6日(木) 今日から、エステル記を読みます。 このエステル記は短い読みやすい物語で、子供バイブルを始め、映画にもなっている大変有名な物語です。(映画のタイトル:プリンセス・オブ・ペルシャ ~エステル記~) 今日は、エステル記1~3章を読みましょう。 「エステルは自分の民族をも、自分の生まれをも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはならないと彼女に命じておいたからである。モルデカイは毎日婦人部屋の庭の前を歩き回り、エステルの安否と、彼女がどうされるかを知ろうとしていた。」 (エステル記2:10,11)

女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。

6月5日(水) 今日でネヘミヤ記が終わります。 ネヘミヤ記の10~13章を読みましょう。 祭司やレビ人を大切にする地域社会のコミュニティーをつくりました。 「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。その日、備品や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人々が任命され、彼らは祭司とレビ人のために、律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた。これは、職務についている祭司とレビ人をユダ人が見て喜んだからである。彼らおよび歌うたいや門衛たちは、ダビデとその子ソロモンの命令のとおりに、彼らの神への任務と、きよめの任務を果たした。」 (ネヘミヤ記12:43~45)

エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。

6月4日(火) 今日は、ネヘミヤ記の7~9章を読みましょう。 律法学者エズラが民に「モーセの律法」を教えます。そして、神の契約を思い起こさせ、契約の更新を計ります。 「エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、『アーメン、アーメン。』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」 (ネヘミヤ記8:5,6) 「捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。 神の律法の書は、最初の日から最後の日まで、毎日朗読された。祭りは七日間、祝われ、八日目には定めに従って、きよめの集会が行なわれた。」 (ネヘミヤ記8:17,18)

こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。

6月3日(月) 今日は、ネヘミヤ記の4~6章を読みましょう。 ネヘミヤは、ペルシア王から監督に任命されてエルサレムに来て、自分の給与を受けずに一住民のようにして、熱心にただ信仰だけによって城壁修復をします。そしてわずか52日で完成しました。 「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。」 (ネヘミヤ記7:15)

天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。

6月2日(日) 今日で聖書通読は23周目を迎えます。 今週で、創世記以来長かった17巻の歴史書を終えます。 最初の大山を越えることになります。 今日は、ネヘミヤ記の1~3章を読みましょう。 ネヘミヤは、まだ困難極める復興作業をしているエルサレムを助けに行きたいと、ペルシアの王に頼みます。ネヘミヤは捕囚の民の一人でしたが、ペルシア王の民に出世していました。 「あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。」 (ネヘミヤ記2:12) 「私は彼らにことばを返して言った。『天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。しかし、あなたがたにはエルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ。』」 (ネヘミヤ記2:20)