ブログ – ページ 145 – 聖書検定協会公式サイト

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信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

11月30日(月) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の12章を読みましょう。 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。」 (ヘブ12:2) 「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。 『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、 決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、 揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。 こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。 私たちの神は焼き尽くす火です。」 (ヘブ10:26~29)

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

11月29日(日) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の11章を読みましょう。 [信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。] (ヘブ11:1) 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。 神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、 その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。 信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。

わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。

11月28日(土) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の10章を読みましょう。 ヘブライ(ヘブル)人への手紙10:19から終わりまでは、今までの議論に立ち、しっかり信仰を持ち続けていこうとすすめています。 このお終わりのおすすめの部分には珠玉の聖句が、この後の章にもいくつもあります。順次ご紹介いたしましょう。 「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」 (ヘブ10:14) 「『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、 からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」 (ヘブ10:17~22)

キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

11月27日(金) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の9章を読みましょう。 地上の聖所と、天の聖所(まことの聖所)について書かれています。 そして、罪を贖う唯一のいけにえについて。 「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、 言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、 ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」 (ヘブ9:11~12) 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。 そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、 キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。 しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、 二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」 (ヘブ9:24~28)

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。

11月26日(木) 今日はヘブライ(ヘブル)人への手紙の7~8章を読みましょう。 【イエス・キリストによる新契約は旧契約に優っている】ヘブ8:7~13 エレミヤ31:31~34を長々と引用し、モーセに与えられた律法を古いもの、一次的なものとし、 やがて新しい永遠の契約が与えられると予言しています。 これはイエス・キリストにおいて成立したことを言おうとしています。 9章では、このことをさらに詳しく説明し、 一度だけ流されたキリストの血が新しい永遠の契約を打ち立てたいと言っています。 「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。 「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。 小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」 (ヘブ8:7~13)

イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。

11月25日(水) 今日は詩編150篇と、ヘブライ(ヘブル)人への手紙の5~6章を読みましょう。 今日で詩編が終わりましたね。ハレルヤ!ハレルヤ! 【メルキぜデクのような大祭司イエス・キリスト】ヘブ6:20 御子イエス・キリストは、特別な大祭司で、モーセの兄アロンより始まる人間大祭司にまさる大祭司です。 そのことをメルキゼデクのような大祭司という独創的と思えるような大胆な説明をします。 メルキゼデクという人は、創世記14:17~24にほんの少しだけ出てくる人物で、読み落としてしまいそうな人です。 詳しいことがわからないほどに少ししか出てこない人ですのに、アブラハムが十分の一の捧げ物をしていることから、 その不思議に着目して、イエス・キリストが思っている以上に偉大な大祭司であることを主張します。 7章がその説明となっています。 「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」 (ヘブ6:19~20)

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

11月24日(火) 今日は詩編149篇と、ヘブライ(ヘブル)人への手紙の3~4章を読みましょう。 【御子イエス・キリストは、モーセにまさっている】ヘブ3:5~6 モーセは忠実に民に奉仕しましたが、イエス・キリストはそれ以上に謙虚に民に奉仕しました。 ヘブライ3:1~19でこのことを論議しています。 【御子イエス・キリストは、偉大な大祭司です】ヘブ4:14~15 ヘブ4:14~8:6はこの手紙の中心になる論議です。イエス・キリストは大祭司であることを語ります。 それを、ユダヤ教徒が尊敬していた人間大祭司と比較しながら語っています。 そもそも祭司とは神と人間との間に立ってとりなしてくれる人です。 「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、 私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。 罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、 大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 (ヘブ4:14~16)

主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

11月23日(月) 今日は詩編148篇と、ヘブライ(ヘブル)人への手紙の1~2章を読みましょう。 【御子イエス・キリストは、預言者にまさっている】ヘブ1:1~3 神はかつて人間を通して語られたが、今やついに御子を通して直接語られます。 御子というのは、私たちの人間の子供という意味ではなく、 神の本質が現されている御方のことで、天地創造をなさった御方です。要するに神が人となった御方です。 【御子イエス・キリストは、天使にまさっている】ヘブ1:6  ここは詩篇97:7の引用と思われます。しかも、ヘブライ語原典からギリシャ語に訳した聖書を基にしていると思われます。 イエス・キリストは、天使が礼拝していますから、神なのです。 ヘブライ1:4~2:18まで、主に詩篇の聖句を自由に大胆に引用しながら、 イエス・キリストが天使よりはるかにまさっていることを語ります。 いまの私たちには少しかけ離れた議論に感じられるかもしれません。 それは、私たちがかつて熱心なユダヤ教であったと仮定して読むと、迫力のある手紙になると思います。 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、 主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。 それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」 (ヘブ2:17~18)

私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。

今日は詩編147篇と、フィレモン(ピレモン)への手紙の1章を読みましょう。 この手紙は極めて個人的な手紙です。当然詳しい背景や経緯はわからないのですが、 フィレモンという人の奴隷で、ネオシモという人の処遇についてパウロが書いている手紙です。 相手の立場を尊重し、問題解決のために信仰的な考え方で書いていることがよく伺えます。 信仰が独善に陥ることなく、一般的な常識にも、良い意味で合致するように努力していることが伺えます。 「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、 あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。 私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。 それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。 私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、 こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。 年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。 彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。 そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。 私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、 あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。 それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。」 (フィレモン6〜14節)

私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。

11月21日(土) 今日から12月6日までの16日間、全国280箇所のテスト会場で、 第1級聖書検定試験が実施されます。 受検者のお一人お一人が、落ち着いて、神様との良い時が持てる時間となりますように、 お祈りいただければ幸いです。 今日は、詩編146篇と、テトスへの手紙の3章を読みましょう。 「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、 聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」 (テトスへの手紙3:4~7)