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だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

10月4日(月) 今日は、詩編98篇と、ルカの福音書9~10章を読みましょう。 イエス・キリストは、弟子を厳しく訓練しました。 その目的は、将来ご自分がいなくなった時、弟子たちが教会を中心にした伝道をするためでした。 弟子たちはこのことに気付いてはいませんでしたが、あとで深く自覚したことだと思います。 もちろん弟子たちは順調に成長しませんでした。最後には、イエスを捨ててしまいます。 しかし、そのような挫折によって弟子たちは本当の信仰に目覚め、強い信仰を持った人になってゆきました。 もちろん最終的には、聖霊が降り、その時彼らは新しい者にされてゆきました。 「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、 わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」 (ルカの福音書9:23~24)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

10月3日(日) 今日は、詩編97篇と、ルカの福音書7~8章を読みましょう。 【イエス百人隊長の僕をいやす】 「イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、 百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。 ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」 (ルカの福音書7:6~7) 【やもめの息子を生き返らせる】 「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、 「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、 ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」 (ルカの福音書7:13~15) 【やもめの息子を生き返らせる】 【洗礼者ヨハネとイエス】 【罪深い女を赦す】 【種を蒔く人のたとえ】 【ともし火のたとえ】 【突風を静める】 【悪魔に取りつかれたゲラさの人をいやす】 【ヤイロの娘とイエスの服に触れる女】 「ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。 だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。 すると、たちどころに出血が止まった。 イエスは、『わたしにさわったのは、だれですか。』と言われた。 みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。』と言った。 しかし、イエスは、『だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。』と言われた。 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、 イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。 そこで、イエスは彼女に言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。』」 (ルカの福音書8:43~48)

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

10月2日(土) 今日は、詩編95篇と、ルカの福音書3~4章を読みましょう。 イエスが成人となり、公生涯に入られた時、イエスが住んでいたガリラヤは、 ユダヤ人の血の混ざった土地の有力者ヘロデという人が領主でした。 他方、エルサレムのあるユダヤはローマから派遣されていたポンテオ・ピラトという人が総督として治めていました。 もちろん、両地方に強大なローマ大帝国の下でのことでした。このような外面的な世界とは別に、 ユダヤ人は神殿を中心にして、一生懸命に律法を学び、これを守るように努力して生きていました。 大祭司、祭司、レビ人を中心に、律法学者や熱心なパリサイ派の人々の指導のもとに、 民衆の生活は営まれていたと思われます。イエスは、神殿を中心とした宗教社会にも、 律法を厳格に守ることが、信仰に取って代わられていることにも反対しました。 それは、当時のユダヤ人の宗教社会を根底から覆すことを意味していました。 しかも、そのことを権威を持って非常にはっきりと言われました。 それで、神に熱心である人々が、神の子を迫害するという結果になってゆきます。 ガリラヤとユダには、会堂があちこちにありました。 一つしかなかった神殿とは、同じ礼拝といえども内容は違っていました。 神殿は犠牲を捧げることを中心とした礼拝を行い、会堂は、律法を学んだり、祈ったりすることを中心とした礼拝でした。 イエスは、その会堂で話をしました。その内容は、異邦人にも救いが及ぶということでした。 今考えてみればごく当然のことですが、 当時のユダヤ人は自分たちが特別な民族(律法を与えられた民族)と思っていましたから手のつけようがないほど、 神のみ心がわかっていなかったのでしょう。 「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、 そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、 自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。 『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」 (ルカの福音書3:21~22)

マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

10月1日(金) 今日は、詩編94篇と、ルカの福音書1~2章を読みましょう。 新約聖書は、最初はギリシャ語で書かれました。 ルカによる福音書のそのギリシャ語はとてもよく練られた美しい文章だそうです。 全体の構成もよく考えられています。 最初の序文までついています。 その序文に出てくるテオピロ(テオフィロ)という人が、どんな人であるかはわかりません。 きっと高貴な地位のある親しい人に書いて差し上げたのだと思います。 書いたルカという人は、使徒パウロと伝道旅行をした医者でありましたから、 きっとたくさんの友人、知人を持っていたと思われます。 マルコによる福音書は、イエスの誕生について何も語らず、 公生涯だけを書いています。しかし、ルカは1 章、2章で詳しく書いています。 マリヤがうたった歌(詩)は初代のクリスチャンたちによって節をつけて歌われたものと思われます。 「マリヤは言った。 『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。 その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。 低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。』」 (ルカの福音書1:46~55)

あの方はよみがえられました。ここにはおられません。

30日(木) 今日は、詩編93篇と、マルコの福音書15~16章の最後まで読みましょう。 ピラトは「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねます。 そして、死刑の判決を受けます。 兵士から屈辱されます。 そして、 十字架につけられます。 イエスは死に、墓に葬られます。 3日後、墓は空っぽで、イエスは復活します。 「青年は言った。『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。 あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。』」 (マルコ16:6)

「これはわたしのからだです。」「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」

9月29日(水) さて、今日は、詩編92篇と、マルコの福音書14章を読みましょう。 この章は、イエスの受難と埋葬、空の墓の発見です。 イエスを殺す計画が立てられます。 ベタニアで香油を注がれます。 ユダが裏切りを企てます。 主の晩餐を行います。 ペトロの裏切りを予告します。 ゲッセマネで祈ります。 イエスが逮捕されます。 最高法院で裁判を受けます。 ペテロが、予告通り、イエスを知らないと言います。 「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。 『取りなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。 彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。 『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」 (マルコ14:22~24)

その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

9月28日(火) 今日は、詩編91篇と、マルコの福音書13章を読みましょう。 イエスと弟子の一行は、長い1日が終わり、ベタニアに帰る途上、 イエスは弟子たちに、イエスの死後に弟子たちに起こる全てを予め語ります。 神殿の崩壊を予告します。 終末の徴候を予告します。 大きな苦難を予告します。 人の子が登場することを予告します。 いちじくの木の教えを説きます。 目を覚ましていなさいと、要求します。 「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。 天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」 (マルコ13:31~32)

家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。The cornerstone.

9月26日(日) さて、今日は、詩編90篇と、マルコの福音書11~12章を読みましょう。 「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、 『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、 ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、 すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」 (マルコ11:23~24) 「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」 (マルコ12:10~11) 「イエスは答えられた。『一番たいせつなのはこれです。 「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。 『すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。』 『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。』」 (マルコ12:28~31)    

では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。

9月25日(土) さて、今日は、詩編89篇と、マルコの福音書9~10章を読みましょう。 【受難の予告】 イエスは三回もご自分の受難について予告されました。(8章と9章) そして、イエスの公生涯が、十字架と復活に焦点を合わせられているように書いています。 マルコによる福音書は必要最小限のことだけ、短く、しかし生き生きと描写しています。 私たちにとってはマルコによる福音書だけでは何か物足りなく、もっと知りたいという気持ちにさせられます。 他の三つの福音書も与えられていることに感謝したいと思います。 四つの福音書を合わせて、イエス・キリストのなさったこと、教えられてことを学ぶようにしましょう。 「彼らはイエスに尋ねて言った。『律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。』 イエスは言われた。 『エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。 では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。 しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。 そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。』」 (マルコ9:11~13)

娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。

9月23日(木) 今日は、詩編87篇と、マルコの福音書5~6章を読みましょう。 マルコの福音書は他の福音書に比べると「教え」が少なく、病人の癒しや奇跡が多く書かれています。 これはイエスが神の子キリストであることに重点を置いているからだと思われます。 ●悪霊に取り憑かれた人をいやす ●十二年長血をわずらっている女性、イエスの着物に触れていやされる ●五千人の給食の奇跡 ●湖の上を歩く など 『ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、 何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、 「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。 「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、 イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』 (マルコ5:25~34)