ブログ – ページ 111 – 聖書検定協会公式サイト

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私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

11月8日(月) 今日は、詩編133篇と、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の3~4章を読みま しょう。 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、 律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、 信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」 (ピリピ3:7~9) 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。 ただ捕えようとして、追求しているのです。 そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。 ただ、この一事に励んでいます。 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、 目標を目ざして一心に走っているのです。」 (ピリピ3:12~14) 「けれども、私たちの国籍は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」 (ピリピ3:20) 「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。 主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、 すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、 そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」 (ピリピ4:5~8) 「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。 また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」 (ピリピ4:12~13)

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

11月7日(日) 今日は、詩編132篇と、フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の1~2章を読みま しょう。 フィリピの信徒への手紙(ピリピ人への手紙)の手紙は、パウロが獄中生活を送りながらも、ピリピの人々への感謝の気持ちに溢れた、主にある喜びに溢れた手紙です。 [すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。] (ピリピ1:18~21) [キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。] (ピリピ2:6~11)

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

11月6日(土) 今日は、詩編131篇と、エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)の6章を読みましょう。 今日でエフェソは終わりです。素晴らしかったですよね! 6章では、親と子に対する勧告、奴隷と主人に対する勧告をします。 そして、「神の武具」で身を固めることの必要性を語ります。 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。 それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。 そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」 (エフェソ6:10~18)

私たちはキリストのからだの部分だからです。

11月5日(金) 今日は、詩編130篇と、エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)の4~5章を読みましょう。 キリストの体は一つであること、 古い生き方を捨てて、新しい生き方をするように。 そして光の子として生きるように。 私たちはキリストの体の部分であるから、父母と離れ、その妻と結ばれ、2人は一体となるように。 この奥義は、キリストと教会とを指して言っているということ。 「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、 また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」 (エフェソ4:16) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。 ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 (エフェソ4:29~32) 「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、 ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」 (エフェソ5:1~2) 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。 自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。 かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。 私たちはキリストのからだの部分だからです。 『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

11月4日(木) 今日は、詩編129篇と、エフェソの信徒への手紙(エペソ人への手紙)の1~3章を読みま しょう。 パウロは、この手紙をローマの獄中で書きました。 それゆえに深い想いと、目に見えない霊的なキリストの体についての教会について語り、祈りにも満ちた手紙になっています。 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」 (エフェソ1:23) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。 それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」 (エフェソ2:8~10) 「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。 また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。 こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」 (エフェソ3:18~21)

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

11月3日(水) 今日は、詩編128篇と、ガラテヤ人への手紙の5~6章を読みましょう。 聖霊を信じて求めている人は、自然に天にある神が持っておられる宝を受けてゆきます。 すなわち、人格的な徳を受けてゆきます。自然に果実が実ってくるように、身についてくるものですから、ここでは霊の「実」と言っています。 九つの実が実ってくると言っています。 (1)愛、(2)喜び、(3)平和(心の平安)、(4)寛容、(5)親切、(6)善意、(7)誠実、(8)柔和、(9)節制、これらの九つの実です。 自然界の果実でも「桃、栗三年、柿八年」と言われるように、植えてから年数がかかりますから、 私たちも性急に理想を期待すぎないようにしましょう。 これも求めない人には与えようもありませんから、私たちは熱心に求めましょう。 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」 (ガラテヤ45:22-23)

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

11月2日(火) 今日は、詩編127篇と、ガラテヤ人への手紙の3~4章を読みましょう。 信仰義認についての本格的な論証が試みられます。 [聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。] (ガラテヤ3:8-13) [そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。] (ガラテヤ4:6-7)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

11月1日(月) 今日から11月! カレンダーがあと2枚、もしかすると1枚(2ヶ月表示なら)になりましたね。 今年も我慢の辛い年になりましたが、少し回復の兆しが見えてきました。 さて、今日は、詩編126篇と、ガラテヤ人への手紙の1~2章を読みましょう。 パウロは反対者の活動により、「ほかの福音(律法主義者の唱えている、真の福音と言えない福音)」へと 動かされかれない危険にに陥っていたガラテヤの人々に宛てた手紙です。 【信仰義認】 「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト·イエスを信じる信仰によって義と認められる、 ということを知ったからこそ、私たちもキリスト·イエスを信じたのです。 これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。 なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」 (ガラテヤ2:16) 【信仰成果】 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」 (ガラテヤ2:19-21)

キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

10月31日(日) 今日でコリントは終わります。 今日は、詩編125篇と、コリント人への手紙 第二の12~13章の最後までを読みましょう。 主から示されたこととして、パウロは弱さを誇ります。 そして結びの挨拶で終わります。 [たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。] (2コリ12:6~10) [終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。] (2コリ13:11~13)

もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

10月30日(土) 今日は、詩編124篇と、コリント人への手紙 第二の10~11章を読みましょう。 10~13章の4つの章は、「弁明の手紙」として、今までの章と異なる手紙であったと思われます。 [私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。] (2コリ10:4~7) [労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。] (2コリ11:27~31)