ブログ – ページ 149 – 聖書検定協会公式サイト

ブログ

私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。

5月4日(火) 今日は、列王記上20~23章を読みましょう。 昨日の聖書通読箇所になりますが、 エリシャの召命について書かれています。(列王上19:19~21) 「十二軛(くびき)の牛」の「十二」という数字にイスラエルの存在が暗示されている可能性も考えられます。 また「エリヤが外套をエリシャに投げた」という、自らの着衣を相手に与えることは、親密さを示し、また自分の能力を相手に与える意味にもなります。 今日で、列王記上は終り、明日からは列王記下に入ります。 「エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。『私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。』」 (列王上19:20,21)

私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。

5月3日(月) 今日は、列王記上17~19章を読みましょう。 列王記上の15章以下は、南北国王の王が次々に出てきます。 読んでいてこんがらがってくる感じがします。細かいところに気を取られずに、それらの王もまた、神から離れていき、自体はさらに悪化してゆくストーリーをつかんでください。 列王記上の終りの方は、偶像信仰と戦う預言者エリヤの活躍が描かれています。興味深い読み易い物語です。相手は悪王アハブとその王妃イゼベルです。でもエリヤ物語が主流ではなく、やはり王物語が中心です。 「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。』」 (列王上17:1)

ユダの人々は主の目の前に悪を行ない

5月2日(日) 1日午前、宮城県で震度5強の地震がありました。心よりお見舞い申し上げます。主の平安がありますように。 今日は、列王記上13~16章を読みましょう。 北王国イスラエルで王となった、ヤラベアムは罪を犯します。 南ユダの首都にある神殿の中にある契約の箱に対抗して、金の子牛の偶像を作ってしまいました。(列王上12:25~33) 一方、南ユダの王となったレハベアムも罪を犯します。 近隣の宗教の真似をして、偶像神を拝みました。 天地を創造された本当の神を捨てると、人は皆、自分で「神」を造ります。その「神」に問題ごとを相談します。当然、自分に都合の良い考えを答えを引き出します。 利己主義が出てきます。 「正義」が崩れます。 個人も国家も、最後には不幸な結果を招くことになります。 偶像礼拝は絶対にいけない!というのが列王記全体に流れている大きなメッセージです。 「ユダの人々は主の目の前に悪を行ない、彼らの先祖たちよりひどい罪を犯して主を怒らせた。」 (列王上14:22)

ソロモンには七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。

5月1日(土) 風薫る5月になりました。 本当に新緑が綺麗で爽やかですね。 ひと時の深呼吸。 今日は、列王記上9~12章を読みましょう。 昨日は、ソロモンの成した二つの良いことを書きました。 今日は、ソロモンに成した悪いこと三つをあげてみます。 その1は、贅沢です。(列王上10:18~21) その2は、王中心の専制政治です。(列王上10:26) 贅沢をして、多くの軍を持って、思うがままに振る舞うことのできた王の背後に、重税と強制労働に苦しんだ人々たちがいたに違いありません。 その3は、背教です。(列王上11:3,4,9,10) ソロモンの恵まれた知恵や、初めの頃の信仰は薄れ、この世的に成功するにつれて、利己的で非人間的な王となり、ついに主の道から離れてゆきました。 そして、ソロモンの死後、王国は分裂してゆくのです。 「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。」 (列王上11:3,4) 「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」 (列王上11:9,10)

わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない

4月30日(金) 粛々と聖書を通読してまいりましょう! 今日は、列王記上5~8章を読みましょう。 ソロモンは二つの良いことを成しました。 一つは、ソロモンの知恵です。(昨日の通読箇所) あと一つは、神殿を建てたことです。 神殿は、間口が9メートル、奥行きが約27メートル、高さが約13.5メートルの長方形の建物です。それほど大きな建物ではありませんが、当時としては、たいへんなものでした。原型は、もちろん幕屋でした。内部は内陣(至聖所)と外陣の二つに分かれていました。典型的な教会堂の構成に似ています。「ソロモンの神殿」は、これらに、立派な玄関部分が付加されていました。もっとも大切な部分は、もちろん内陣(至聖所)でした。そこに神がおられるという意味ではありませんでいた。神の作られた宇宙の縮図が、一つの家の形をとって現れたようなものでした。神はどこにでもご臨在しておられますが、そのしるしが神殿でした。 「そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。 『あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。』」 列王記上6:11~13

善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。

4月29日(木) 大型連休が始まりました。 しかし、今年も外出自粛ということになりました。 主に守られて、お家に居ることにいたしましょう。 「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。」ですね! 今日から、列王記上がはじまります。1~4章を読みましょう。 列王記上には、ダビデの子ソロモン王のことや、その後、王国が南北に分裂していった様子が描かれています。もちろん、その原因は王たちの不信仰と罪でした。 ダビデは妻が多く、従って、子も多く、その子供たちの争いで不幸な晩年を送りました。 子供の一人ソロモンが、ダビデ王のお眼鏡に叶い、権力争いにも勝って王位を継ぎました。神の祝福の約束は、アブラハム、モーセ、ダビデ、そしてソロモンを通して継続されます。 「その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』 『善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。』この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。』」 列王記上3:5,9~14

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。

今日から聖書通読は第18週に入ります。 いったい私たちは「聖書通読難易度マップ」のどの位置にいるのでしょう。 今まで来た中では最も高い山の頂上にいるみたいですね。ファイト! 今日でサムエル記下も最後です。21~24章を読みましょう。 「主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った。 彼はこう歌った。『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。』」 サムエル記下22:1~4 しかし、再び主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がります。 ダビデは自分の権力に溺れたのでしょう。 主が本当の王であられるがゆえに、ダビデの人口調査は越権行為であったかもしれません。

わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

4月27日(火) 今日は、サムエル記下17~20章を読みましょう。 ダビデの息子アブサロムは、反逆の最中に戦死しました。 アブサロムは非の打ち所がないほど美しく、その髪は豊かで、自慢の一つでした。しかし、樫の木の下を騾馬で駈け抜ける時に、その豊かな髪が樫の枝にひかかってしまい、宙吊りになったのです。 ダビデは、愚かゆえに不憫に思い、愛する我が息子の死を嘆きます。 「すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』」 サムエル記下18:33(新共同訳19:1)

見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。

4月26日(月) 今日は、サムエル記下13~16章を読みましょう。 ダビデの妻は聖書に出てくるだけでも七名もいます。 彼の三番目の息子アブサロムは愚かでわがままでした。父ダビデを殺し、自分が王になろうとしました。 「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。』」 サムエル記下16:11

ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

4月25日(日) 今日は、サムエル記下9~12章を読みましょう。 ダビデ物語は決して英雄物語ではありません。旧約聖書に出てくる他の人物と同じように、私たちは決して美化してはならないのです。 何故ならば、聖書はそのようには伝えていませんから。 聖書は、アダムの子孫の罪を語り、そして同時にアブラハムになされた祝福の約束を果たそうとする神の誠実を描こうとしています。ダビデ王も、神の前に小さな、人間くさい王にしか過ぎません。 そして、ダビデは、バテ・シェバの夫である忠臣な部下ウリヤを殺し、バテ・シェバを自分の妻の一人にするという、罪をおかします。いわゆる「バテ・シェバ・スキャンダル」です。 しかし、ダビデは預言者ナタンの説教を聞き、犯した罪の大きさに気付き、心から悔い改めます。 ダビデ王の優れたところは、指導者としての賢さや、歌や楽器を奏でる才能や、軍事的指導力ではなく、神を畏れる信仰でした。 詩篇51篇は、この時の懺悔の祈りの歌です。 「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、『あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。』との報告を受けた。」 サムエル記下11:2,3