キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。 – ブログ

ブログ

11月2日(月) 今日は、詩編127篇と、ガラテヤ人への手紙の3~4章を読みましょう。 信仰義認についての本格的な論証が試みられます。 「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、 『あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。 「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。 なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」 (ガラテヤ3:8-13) 「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」 (ガラテヤ4:6-7)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA