10月26日(木)
今日は、詩編119篇と、コリント人への手紙 第一の15~16章を読みましょう。
宗教とか信仰とかに全く関心のない人、また無神論者には、聖霊とか、私たちのうちにある霊とか言っても、
架空のことのように思えて理解しにくいと思います。
しかし、パウロは自分の霊に神の霊が働きかけて、舌が自然に動き出して話し始める「異言」を常に体験していました。
従って、神の霊(聖霊)や人の霊が本当に存在するかどうかということは、問題ではなく、存在することは当然のことでした。
すなわち、パウロの教える「霊的な信仰」というのは、知的な理解ではなく、体験から出ている確信に基づいています。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」
(1コリ12:20~26)
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」
(1コリ12:51~55)